放送界の先人たち・川平朝清氏 ~「プロレスをやったら受信料払ってやる」沖縄の本土復帰前後の苦労語る~【調査情報デジタル】
川平 ええ。これは明らかに日本が1952年に独立を回復しますよね。そうなるとNHKの放送は危険であると、何でも報道をしたわけですからね。もう検閲がなくなってますし。もうそれは当然のことなんで。それで沖縄で面白いことが起きたんですよ。 各務 NHKからの番組が減るということは、自主制作のものを増やさなくちゃならないということですね。 川平 そうです。で、その頃から、沖縄の制作能力というのはかなり高まってきたと思います。それで一番問題になったのはニュースなんですよね。で、ニュースは自己取材をやってたわけですね。 いっぽうで検閲は続いてました。 ■アメリカ留学のこと、それからRBC時代のこと 川平 私は1953年から57年までアメリカのミシガン州立大学に留学※して大学院まで行くんですが、そこの大学院を出る時にですね、学部長が私を呼んで「川平、おまえ帰ったらどこで仕事するんだ」と。だから「今のところは琉球放送って、かつていたところが商業放送になってるんだけれども、そこに行くことになるかもしれない」と。 そしたら「向こうはアメリカ軍の占領下にあるから、いろいろと圧力だとか何とかあるだろう」と。「いや、圧力どころか、ニュースはまだ検閲されてるんだよ」と云ったら「そういう事実を書き送れ」と。「そしたら我々のほうでバックアップしてやる。報道の自由というのはアメリカの民主主義の国是である。検閲があったら何でもいいから知らせろ」というような学部長だったですね。 これは非常に心強いことだったんです。そしたら帰ったらですね、1週間もしないうちに検閲がなくなるんですよ(笑)。ですから、何もそれについては働きかける必要はなかったんですけれどもね。 アメリカに留学するときは、あのころはガリオア資金※ って言ってたんですね。いまのフルブライトの前で。 ※ 占領地域救済政府資金のこと。 その資金で行きましたので、身分は全く切れて行きましたけども、ただ留学した期間だけは帰って沖縄で勤めなければいけないという、そういう条件があるだけでしたね。ですから、帰ってきた時には琉球放送の社員として採用された。