放送界の先人たち・川平朝清氏 ~「プロレスをやったら受信料払ってやる」沖縄の本土復帰前後の苦労語る~【調査情報デジタル】
各務 そうして「琉球の声」、通称ラジオ沖縄っていうのができた。川平さんのお兄様の朝申さんが発議されて、そして軍政府が認めてですね、その局長に任命されたのも、軍政府から任命されたわけですか。 川平 そうです。 ※「琉球の声」放送(通称ラジオ沖縄)は1949年米軍により始まった日本語試験放送を引き継ぐかたちで1950年1月21日開設。現在のラジオ沖縄(ROK)とは別の会社。その後、地元紙沖縄タイムスが中心になって設立した琉球放送(RBC)が引き継いだ。 「琉球の声」が放送を開始した時には、ほとんどの番組はNHKの番組を中継したんですよ。で、NHKはですね、あの当時短波で番組を送ってたことがありますから、その短波を受けて再放送したと。 それについては、当時、日本の方も占領下ですから、これはもうアメリカの、沖縄の軍政府と、本土のCIE※との間で連絡がついていて、それでNHKの番組というのは安全であるというような気持ちもあったと思うんですね。ですからNHKの番組をほとんど放送してました。 ※CIE(Civil Information and Education Section) 民間情報教育局 放送などを管轄する部局。 各務 当時の番組は沖縄県人にはどういう受け取られ方でしたか? 川平 喜ばれてた面はありますね。やはり本土から引き揚げてきた人たちがいますから、本土で聞いたものを沖縄でも聞けるということで、非常に喜ばれました。 さらに言えば、私は1952年NHKのアナウンサー養成所に参加して研修を受けるということも出来ましたから、そういう意味ではNHKは非常に好意的だったと思います。 各務 ただ、この放送史によりますと、1951年から53年の間は、大体NHKからの番組が50%あったのが、55年から米軍の意向があって、NHKの番組は1日2時間に減らされたとあります。これはやっぱり朝鮮戦争とか何かと関連があるでしょうか。