放送界の先人たち・川平朝清氏 ~「プロレスをやったら受信料払ってやる」沖縄の本土復帰前後の苦労語る~【調査情報デジタル】
各務 それはアナウンサーとして? 川平 いえ、違います。その時はですね、琉球放送は日本語のラジオと、英語のラジオの2波を持ってたんですね※。で、そこのステーションマネージャーというのがアメリカ人だったんですけども、アメリカ人がちょうど辞めるということになったんで、で、私がアメリカから帰ってくるなら、その仕事を川平にさせようと。そうすれば、アメリカ人ですからかなりの高給を払ってたわけですね、その高給を払わなくて済むと(笑)。 ※ 琉球放送は1955年から1973年まで1局2波で英語によるラジオ放送も行っていた。 会社にとっても、私が帰ってくることは非常に良かったんじゃないかと思うんですね。で、私は大学院ではラジオ・テレビの経営学をとってましたんで、修士論文ていうものも、沖縄にテレビ局を建設し、その経営と放送番組についてというような内容で書いたんですよ。 ですからそれを持って帰ってテレビを始めようということで、琉球放送はそれを買ってくれたわけですね。まあ、買ってくれたって変な話ですけれども。ですから、タイミングとしては非常に良かったです。で、琉球放送も、一応経費節減にはなったと思いますが。 ただ、そのアメリカのマネージャーが使っていた社宅と、それから車を与えてくれましたですね。で、これは私ごとで恐縮なんですけど、私は家内がアメリカ人なんです。その家内には「(沖縄には)もう電気はない、水道はない、ないわけじゃないけど、どっかにバケツをぶら下げて行くんだ」とかね、「それからもうトイレっていうのは、もうこれは、フラッシングトイレットなんてものはない」とか、そういうことを言って、家内は相当覚悟して来たんですよね。 そしたらそういう家をポッとくれたもんですから、「大うそつき」ってことになったんですけども(笑)。みんなこういう家に住んでるわけじゃないんだっていうことは家内も後でわかるんですけれども。 各務 琉球放送っていうのは、TBS系だったということですけど。