放送界の先人たち・川平朝清氏 ~「プロレスをやったら受信料払ってやる」沖縄の本土復帰前後の苦労語る~【調査情報デジタル】
※台湾放送協会 1931年日本の植民地だった台湾で社団法人として設立された 各務 「沖縄・放送戦後史」によりますと、1945年の3月に米軍機のロケット弾が放送局に当たって、放送は不能状態になって、それから4月1日には米軍が上陸して。だから、局員が8名亡くなったとされていますけども、この8名の方というのは全部沖縄県人の方です。そして戦後ラジオ放送が開始されるまでの5年間※というものは…全く空白なわけですね。恐らく。 ※1949年5月に米軍政府がAKARラジオのテスト放送を開始、1950年にスタジオを那覇の米軍政府内に移した、と前述の宮城悦二郎「沖縄・放送戦後史」にある ■「琉球の声」誕生 川平 全く空白ですね。しかし、私の兄の朝申※(1908~1998)というのがですね、沖縄人側の政府、あのころは沖縄人側の政府を沖縄民政府と言ってたわけですね。 ※川平朝申 (かびら ちょうしん) 当時沖縄民政府勤務 のち「琉球の声」放送局長 そこに文化部というのがありまして、ラジオをやろうという提案をするわけですよ。で、提案をしますとですね、電気もない、ラジオを持ってる沖縄人がいない。まずは住宅だということで、荒唐無稽扱いされるんですね。 私の兄は臆することなく、実際にアメリカ軍政当局に持ってったら「お、これはグッドアイデア」と。むしろ軍政当局のほうがこれを取り上げるということになるんですよ。だから、その意味では、私の兄の朝申、私事ではありますけれども、「ラジオというものはまず電波を出さなければ、誰も聞かない」と。「みんなラジオ受信機を用意してラジオが始まるのを待つというものではない」と。「しかもラジオを始めれば、これを聞きたいということになって…」、今で言えば電化ですよね。 ※(1950年)当時の沖縄本島の電力事情は、1953年に牧港火力発電所が石炭火力による電力供給を行うまでほぼ自家発電に頼っていた。1954年、琉球電力公社発足、復帰後沖縄電力となる。