花の2区、戸塚中継所に向かう胸突き八丁の終盤が「ワンマン道路」と呼ばれたわけ
第101回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が2025年1月2、3日に行われる。 【動くグラフで見る】「箱根駅伝」優勝回数ランキング
コース上にある踏切は、5区、6区にある箱根登山鉄道の小涌谷踏切の1か所だけだが、かつては他の場所にも踏切があった。1区と10区にあった京急電鉄の「蒲田第1踏切」(東京都大田区)が懐かしい。
そしてもうひとつ、横浜市戸塚区にも踏切があった。JR戸塚駅北側にあった旧東海道の「戸塚大踏切」だ。現在のルートでは往路2区のランナーは国道1号(東海道)の権太坂(横浜市保土ヶ谷区)を過ぎて不動坂の分岐(同市戸塚区)から国道1号バイパス(戸塚道路)を経由して戸塚中継所に向かうが、バイパスが1955年に開通する以前の第30回大会(1954年)までは、駅伝コースは戸塚駅のすぐ脇を通る旧東海道がルートで、この踏切があった。
「箱根駅伝70年史」(関東学生陸上競技連盟)によると、第29回大会では中央大の2区のランナーが不運にも踏切で足止めされている間に明治大が追いつき、戸塚中継所では1位中央大が明治大と1秒差でたすきをつないだと記録されている。
バイパス道路が作られた背景にはこんな逸話がある。「戸塚大踏切」は、交通量の多い幹線道路で、列車が頻繁に行き交う「開かずの踏切」として知られていた。戦後、神奈川県大磯町に住んでいた吉田茂首相が車で東京と往復する途中、踏切でいつも長時間待たされるのに業を煮やして、迂(う)回路となる戸塚道路の建設を急がせたというのだ。「ワンマン宰相」のツルの一声で55年に開通した道路は「ワンマン道路」「吉田道路」などと呼ばれた。
このバイパス区間は23・1キロの2区の中で、最後の約4キロにあたる。特に「戸塚の壁」と呼ばれるラスト3キロは、約1キロごとにアップダウンを繰り返して最後に急な上りが待ち構える難所だ。
「開かずの踏切」と言われた戸塚大踏切は、線路をまたぐ歩行者用高架橋「戸塚大踏切デッキ」が2014年に完成し、翌年に自動車用アンダーパスが供用されたことにより役目を終えた。(デジタル編集部)