巨大軍需工場の悲劇、真っ先に攻撃の標的となり犠牲者多数 「東洋一」とうたわれゼロ戦エンジンなど製造
東京の西部、現在の武蔵野市にかつて「東洋一」とうたわれた巨大な軍需工場があったのをご存じだろうか。太平洋戦争時、軍用航空機の生産で三菱重工業とシェアを分けた「中島飛行機」の武蔵製作所―。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のエンジンなどを製造し、敷地面積は東京ドーム12個分に当たる約60万平方メートルに及んだ。 【写真】「初めはゼロ戦かと思ったが、もっと大きかった」種子島沖に沈む旧日本軍機 地元漁師からうわさを聞き、15年探しついに発見 不明パイロットはどこに?
だが当時最先端の工場は、それ故に米軍の最重要の標的となった。戦争末期、北マリアナ諸島のサイパン島が陥落すると、1944年11月24日、同島を飛び立ったB29爆撃機による初めての本土空襲として攻撃を受けた。 敗戦後に閉鎖された工場は一時期、米軍宿舎として使われるなど数奇な運命をたどった。最初の空襲から80年。今は広大な公園の一角に小さな名残をとどめるのみだ。(共同通信=松本鉄兵) ▽真珠湾攻撃に参加の攻撃機を製造、一大航空機メーカーに 中島飛行機は、海軍出身の中島知久平が1917年、今の群馬県太田市に設立した「飛行機研究所」が起源とされる。当時の最先端技術を駆使し、日本海軍の単発機として初めて引込脚を採用した「九七式艦上攻撃機」や、一式戦闘機「隼」などを送り出した。九七式艦上攻撃機は日米開戦のきっかけとなった1941年12月の真珠湾攻撃でも使われ、中島飛行機は一大航空機メーカーへと成長した。
現在の武蔵野市に陸軍専門の工場「武蔵野製作所」が開設されたのは1938年。その3年後には、隣接地に海軍専門の「多摩製作所」も設けられた。工場が別々につくられたのは陸海軍が対立関係にあったためだ。両工場の間は塀で仕切られていたが、戦況が悪化した1943年、合理化と増産のため統合され「武蔵製作所」になった。 ▽麦畑に立ち並ぶ煙突、鳴り響くエンジンのテスト音 工場では最盛期、5万人近くが従事したとされる。「勤労動員」として周辺約40の学校から集められた10代の学生も多く、ゼロ戦などのエンジンを24時間体制で製造していた。 当時16歳で勤労動員された矢島淑子さん(96)は「工場内はエンジンのねじを作る際に使うしょうゆ油でいたるところがべとべとしていた。機械で指を削ってしまうこともよくあった」と話す。エンジンは群馬の太田製作所などに運ばれ、機体に装着された。 「麦畑の中にあった巨大工場を高いコンクリート塀が囲み、工場の煙突からはいつももくもくと黒い煙が昇っていた」