「壁面に骨片がびっしり刺さっていた…」日本兵2万2000人が死亡した「絶望の戦場」のその後
遺児の僕、硫黄島の戦没者遺児と出会う
祖父の履歴書を見て以来、僕は硫黄島への関心を持ち続けた。関心が一段と大きくなったのは大学卒業後、北海道苫小牧市の地域紙の記者になってからだ。2006年、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」が公開された。人気アイドルグループ「嵐」の二宮和也さんが主要キャストを務めたこともあり、若い世代も関心を寄せた。二宮さんが演じたのは、待望の第一子の誕生を目前に控えながらも、召集令状によって硫黄島に送り込まれたパン屋の店主だった。彼の視点を通じ、玉砕に至る激戦の経過が概ね史実に即して描かれた。 一方、映画では描かれなかった事実がある。それは、本土の防波堤となるべく散った硫黄島兵士たちの戦後だ。玉砕した2万人超のうち1万人の遺骨が今なお島内に残されている。僕はこの事実を、映画鑑賞後の運命的な出会いによって知ることになった。 その出会いの相手とは、当時74歳だった三浦孝治さん。札幌のベッドタウン、恵庭市に住んでいた。定年退職後の第二の人生を、父が散った硫黄島での遺骨収集に捧げた戦没者遺児だった。地域の行事で出会った際、本人からそんな半生を打ち明けられた。 三浦さん宅は、僕の職場兼住居だった恵庭支局から徒歩5分の住宅地にあった。何度、話を聞きに行ったことか。何度、遺骨収集の写真を見に行ったことか。三浦さんは背が高くてがっちりした体格のお年寄りだった。筋肉質なのは、父亡き後の家族を支えるためにがむしゃらに働いたためだと思われる。「おかげでこの歳になっても遺骨収集に行けるんですよ」。いつも明るい声。いつも笑顔だった印象だ。電話での第一声は決まって「さかいさーん」と弾んだ声。僕は今でも硫黄島に関する何かをしているとき、その声を思い出す。生前、そうだったように、今も変わらず三浦さんと二人三脚で硫黄島のことに取り組んでいる気持ちでいる。 地域紙の記者は全国的、あるいは世界的な世相を地域社会に反映させて報道するのが職務だ。映画の公開で硫黄島への社会的関心が高まったことを受け、僕は三浦さんの遺骨収集体験を伝える記事を連載しようと考えた。初めて会った時点ですでに15回、遺骨収集団に参加していた三浦さんの話は壮絶だった。「ある壕に入ると、壁面に骨片がびっしり刺さっていた。砲爆撃を浴びたのか、手榴弾で自決したのか。そんな壕は一つや二つではなかった……」。 国の命令で絶望の戦場に送られ、体が四散どころか粉々になったまま放置された兵士は大変不憫だが、それを自分の父と重ねて骨片の一つひとつを壁面から抜いて集める高齢の遺児たちもまた不憫だと思った。 三浦さんの遺骨収集体験を綴った連載「矢弾尽き果て 悲劇の島・硫黄島」の反響は、それまでの記者人生で最大だった。映画が描いたのは日米の激戦であり、散った兵士の遺児の戦後は伝えられなかったことも大きな要因になったと思う。硫黄島のその後について知りたがっている人たちは、確かに存在している。そんな思いを強くした。 つづく「『頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ』…硫黄島に初上陸して目撃した『首なし兵士』の衝撃」では、上陸翌日に始まった遺骨収集で見た「首なし兵士」についてレポートする。
酒井 聡平(北海道新聞記者)