「壁面に骨片がびっしり刺さっていた…」日本兵2万2000人が死亡した「絶望の戦場」のその後
1987年、まだ何も知らなかった夏休み
「硫黄島の戦い」とは一般に、米軍が上陸した太平洋戦争末期の1945年2月19日から、日本側守備隊が最後の総攻撃を行った3月26日までの36日間の地上戦を指す。1日も早く硫黄島の飛行場を占領して日本本土爆撃を進めたい米軍と、1日でも長く飛行場を死守して本土侵攻を阻止したい守備隊が激突した。組織的戦闘が終わっても、守備隊側の生存兵の多くは投降せずに地下壕に籠もった。川のない渇水の島で、死よりもつらい喉の渇きにもがきながら、次々と絶命した。結果、守備隊2万3000人のうち2万2000人が死亡した。 僕の祖父である酒井潤治が大戦末期、小笠原諸島の父島や母島にいた事実を祖母から教えられたのは、1987年の夏休みのことだった。僕は小学5年生だった。今、僕の記憶の中にいる当時の僕には、笑顔がない。祖母も同じだ。夏休みに入る1ヵ月前の6月11日、47歳だった僕の父、暲忠が職場で倒れ、急逝したためだ。母允子は悲しみに暮れた。父なき遺児となった僕は夏休みの一時期、父方の祖母トラノの家で過ごした。僕は「おばあちゃんっ子」だった。少しでも悲しみが癒やされれば、という母の配慮があったのだと思う。 そんな祖母宅でのある日、僕は仏間に招かれた。祖母は祖父の仏壇の中から、今にもばらばらになりそうな、朽ちたつづら折りの書類を出した。 祖父が軍隊時代に携帯した履歴書だと教えられた。濡れた跡があり、にじんで読めない文字があった。祖父は戦時中、沈みゆく軍艦から生還したことがあったという。なんとか読める文字の中に「父島」と「母島」があった。硫黄島近隣の島々だ。履歴書がかろうじて伝えた事実。それは、硫黄島守備隊の兵士と共に小笠原諸島の防衛を担う部隊に祖父が所属していた、ということだった。 祖父は終戦後「別人のように痩せて帰ってきた」と教えてくれたのも祖母だった。隣の硫黄島の兵士たちは玉砕したのだから、祖父は幸運だったと言えるのだろう。だが、戦争で消耗した体は以前のようには回復せず、1965年に56歳で病死した。そしてその長男である、僕の父も1987年に47歳で急逝した。祖父の足跡や人柄などを聞く前に、父は天国の祖父の元に旅立ってしまった。だから、現在46歳になった僕が知る祖父の情報は「硫黄島の隣の島から衰弱して生還した元兵士」ということだけだ。 祖母は、僕に履歴書を見せたとき、こんな話をした。 「お父さんはもういないから、聡ちゃんが大きくなったら大切に預かってね」 父ができなくなったことは、自分が果たさなくてはならない。そんな使命感のような思いがこの時、幼い心に刻まれた。そして、その履歴書は、2008年に93歳で他界した祖母の願い通り、今、僕の手元にある。