「首里の町あたり一面に死体が広がっていた」沖縄戦、民間人の半数以上は第32軍司令部の無謀な作戦が原因で命を落とした
「死の橋」「死の十字路」
またこの日、師範学徒隊員も首里城から脱出したが、首里方面から南部への退却路は、南風原にある2つの橋(一日橋、山川橋)か十字路を通らざるを得なかった。ここに兵や民間人が押しやられ、戦後、「死の橋」「死の十字路」とたとえられた。 「米軍はこの二つの橋に照準を合わせて、それこそ四六時中砲弾の雨を降らしていた。(中略)途中、るいるいと折り重なる屍体をふみわけて進んだり、幼い子どもや老人、負傷した兵が泥の中で助けを求めてすがりついてくるのであるが、どうすることもできなかった(*7)」と証言に記録されている。 これはまるで「前門の虎、後門の狼」状況下での逃避行であった。 ところで、第32軍司令部が首里城地下司令部壕を脱出した5月27日、東京大空襲でほぼ焼け野原となった東京の中野地区で日本軍が沖縄で勝利したとの話が突如持ち上がった。このとき、人々は騒ぎ立て、万歳を叫び、国旗を立てたりなどしたという。 この話を聞いた作家の伊藤整は、日記の中でこれが事実ならば胸が躍る快挙だとそのときの興奮を記している。反面、「帝都はことごとく灰燼に帰し、沖縄の敵の全面降伏という虚報が巷に飛ぶということは、何とも言えず不安なものを感ずる(*8)」とも書いている。 そもそも沖縄戦勝利デマは、大本営が流し続けたもので、これに特攻隊攻撃や新兵器と呼ばれた人間ロケット爆弾「桜花」などの話で尾ひれがついて、荒廃した東京の街中で、デマとして飛び交ったのだろう。 戦争で周囲がいかに悲惨であっても、ある状況を人が真実ととらえれば、信念にまで高められるものであることを実証したものである。こうして、沖縄戦の勝利を願う大衆は、何ら疑いもなく、デマに踊ったのである。 *1 八原博通『沖縄決戦―高級参謀の手記』読売新聞社、1972年267頁。 *2 同上、293頁。 *3 沖縄県公文書館MCJ00527第1海兵師団情報参謀部定期報告。 *4 NARA RG407 Box2955 Operation Reports, TAMA Operation Order#37. *5 西野弘二『紅焔―沖縄軍参謀部付一少佐の手記』星雲社、1994年、100頁。 *6 同上、93頁。 *7 諸見守康「沖縄師範の鉄血勤皇隊」、前掲『沖縄の慟哭』305頁。 *8 伊藤整『太平洋戦争日記』(三)、新潮社、1983年、321頁。
---------- 保坂廣志(ほさか ひろし) 1949年、北海道生まれ。 琉球大学法文学部元教授。沖縄戦を中心とした執筆、翻訳を行う。『戦争動員とジャーナリズム 軍神の誕生』(ひるぎ社)、『硫黄島・沖縄戦場日記』(紫峰出版)など、共著に『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)などがある。 ----------
保坂廣志