「首里の町あたり一面に死体が広がっていた」沖縄戦、民間人の半数以上は第32軍司令部の無謀な作戦が原因で命を落とした
あたり一面に死体が広がっていた
こうして5月22日、牛島司令官は、喜屋武半島後退案を決心、5月27日の軍司令官の地下司令部壕出発をはじめとし29日までの1週間、なりふりかまわぬ人間模様が展開された。この間米軍砲撃で合同無線通信所が破壊され、無線は止まり、すべての命令は通達として各部隊に発出された。 「第32軍司令部通達(退却作戦の間)絶対に話をしたり、タバコを吸ったり、明かりを点けたりしてはならず。計画は完膚無きまでに秘密にしておかなければならない(*3)」 首里撤退に際し、各部隊は前後の間隔を空け、「音を立てず、特に沈黙を保ち、絶対的な機密」を図るよう細かな注意がなされた。また、「許可なく戦場から逃亡した兵士に対し、これら(兵士には)、死罪をもって臨むべし(*4)」と牛島司令官名による命令も出ている。 まるでこれは夜逃げ同然の日本軍退却であった。死霊が飛び立つかのように、重症者や足腰の立たぬ兵士らは、その場において毒殺や自裁を強いられた。 さて、第32軍司令官らの退却は、脱出日初日の5月27日午後7時ごろ、出口は第5坑道からだった。地下司令部壕内は、連日の艦砲射撃により坑道壁は崩れ、地鳴りがし、通路には汚水があふれていた。 第32軍地下司令部を脱出する最後の様子を、参謀の一人が記している。 「(南部に撤退する5月27日)壕の壁から水がしみ出してきたかと思うと、その内壕内に水が這って流れ出した。壁が緩んで時々ガラガラと落ちてくる。十糎、二十糎、三十糎、流れる水量は増すばかりだ。所々で上壁から滝のように水が噴流する。(中略)狭い壕を通行する人々は、ざぶざぶ水をかきたてながら行く。(第5坑道に行くのに)この急斜面を奔流のように水が流れる。(中略)地下三十米メートルの壕は、地下水の排水溝の役目をしだした。笑えない悲劇だ(*5)」 梅雨の豪雨と暴風雨とにより壕内は水かさを増し、椅子や生活用具も坑道下に流れ出し、将兵らは無防備のまま土砂降りの中に突っ立っているようなものだった。自然を破壊して築城した第32軍地下司令部壕は、今まさに艦砲射撃と自然の力により崩れ去ろうとしていた。将兵らは、僅かばかりの携帯品や武器を持ち、命からがら地下司令部壕を立ち去った。 5月27日に壕を脱出した参謀は、首里の街についてこうも述べている。 「首里の町は跡形もなく廃墟と化した。家は形もなく壊れ果てている。ほのかな煙が、散乱する木片の塊の中からむらむらとあがる。(中略)数百年も経たであろう、鬱蒼たる大木も今は無残にも巨幹をもぎとられ、(中略)草木は全く生えていない。(中略)悲惨にも戦友の草むす屍が折り重なって朽ちている(*6)」 司令部壕や自然だけでなく、人も朽ち果てあたり一面に死体が広がっていた。