「首里の町あたり一面に死体が広がっていた」沖縄戦、民間人の半数以上は第32軍司令部の無謀な作戦が原因で命を落とした
首里城と沖縄戦 #3
1945年の8月に日本は敗戦し、第二次世界大戦は終わった。その3か月前の5月、沖縄の首里城を司令部として戦った沖縄戦が最終局面を迎える。本土決戦の時間稼ぎとして行われた悲惨な沖縄戦の中でもひときわ壮絶な悲劇が起きたのが、軍部が首里城の地下司令部壕を捨てた後だ。 【写真】牛島満第32軍司令官 『首里城と沖縄戦』より一部抜粋・再構成し、なぜ悲劇が起きたかを解説する。
補足 1945年5月、沖縄戦では既に米軍の勝利は決定的であったが、日本軍第32軍が首里城の地下司令部壕を捨てて、南部に撤退することにより(つまり戦争を継続させることにより)、多数の沖縄県民の犠牲者が出た。沖縄戦の県民の犠牲者約9万4千人のうち半数以上が、第32軍が首里城を撤退した後の1ヶ月の間に亡くなったのだ。
地下司令部壕からの日本軍の脱出
さて、1945年5月中旬から月末に至る米軍の徹底的な首里城砦の破壊攻撃は、日本軍を壕内に閉じ込める一大作戦であった。そのため米軍情報部は、日本軍の動きを24時間体制で監視していた。ただし米軍側でも、戦闘の最後をどうするか考えあぐねていた。 米軍参謀会議で民間人問題が話し合われた5月22日、首里城地下司令部壕内において、沖縄戦の今後を左右する首里城撤退の是非が論議されていた。 第32軍高級参謀の八原大佐は、日本軍の総攻撃が失敗した5月4日後、司令部の玉砕の地をどこにするか研究を始めた。最初は、本土決戦を遅らせる戦術に知恵を絞ったが、米軍攻撃が首里近郊に及ぶにつれ、一日も早く地下司令部壕を脱出するには、どうすればいいかに傾いていった。 5月10日夜半、八原大佐は自室で赤、青チョークが入り混じった日米の戦闘地図を眺めていた。ふとそのとき、「首里高地を軍司令部の所在地としてではなく、主陣地帯上の一大拠点として見れば首里戦線は地形上なお相当長期にわたり命脈があるのだ。(中略)私はこの新たな戦線観に、形容すべからざる歓喜を覚え、自信力の湧き出るのを制することができなかった(*1)」と述べている。 八原大佐の考えは、首里地下司令部壕で最後を迎えるのではなく、ここを南部後方につながる長い廊下の中間点とみなしたことだ。 そうすると、南部への退却路がポッカリ空いており、それが摩文仁(まぶに)後退案であった。ただし同大佐の口から退却案を出すと、人望がない彼のこと、反対されるのは目に見えていた。そこで彼は、一計を案じ、若手参謀に撤退案を出させる一芝居を打った。 5月22日、軍司令官の居室に隣接する軍参謀寝室で撤退案が協議された。各部隊参謀の意見の流れは、「喜屋武半島後退案=摩文仁(まぶに)後退案」が優勢であった。会議が終了した後、八原大佐は、長少将が近くにいないのを確かめ、参謀寝室に2人の参謀を呼びつけ、再び一芝居を打った。隣には牛島満中将が耳をそばだてて、事の成り行きを注視しているのを瞬時に見て取った。 「『軍の最後の陣地は、喜屋武案でなければならぬ』と私は声を出した。その瞬間、(隣室にいる)司令官のあてどないような表情が、急に動いて嬉しそうな顔つきに一変した。将軍は黙しておられるが、心ひそかにこの案を希望しておられるな、と推断し私はしめた!と心に喜んだ(*2)」。 戦いの帰趨を決する重要な決断の際、軍師ともおぼしき八原大佐は決まって誰かの「嘲笑」や「微笑」を読み取っている。軍司令官にとり、最終地を決めるということは、死没地を決めることと同じで、一日でも生き永らえられることは無上の喜びであっただろう。 そこには、やがて来る軍民の壮絶な死が待ち受けていたが、軍指導者らの脳裏には、南部撤退は「陣地転換」ほどの意味しかなく、特段住民について論議した様子はない。 八原大佐にとってこの日の司令官の表情は、よほど印象に残ったのか、同大佐には珍しく「私はしめた!と心に喜んだ」と人間的な感情を放出している。一世一代の大芝居だったのだろうが、観客は誰もおらず、やがて来る悲劇の序章の幕が開いた。