秀吉や家康らの「支持」で得た鍋島直茂の権力
■「支持」を集めるための献身 直茂が、龍造寺家の実権掌握を当初から望んでいたかは定かではありません。九州征伐後の肥後国人一揆で、龍造寺政家が非協力的な態度を示した事がきっかけとなり、秀吉から直茂に指導的な立場につくよう命じられたのが始まりのようです。 豊臣政権からの「支持」を権力の源泉としているため、慶長の役では親子で出征するなど献身的な姿勢を見せています。 関ヶ原の戦い後は、徳川家に次男忠茂を人質として送るなど、次の権力者である家康からの「支持」獲得に尽力します。 また、龍造寺宗家である政家や嫡子高房(たかふさ)に対しても、江戸滞在に必要な費用を工面し続けるなど配慮を続けています。龍造寺一門である諫早家(いせはやけ)に約2万6千石、後藤家に約2万1千石など、小大名並みの所領を認め、重臣としての地位も与えています。 これらの配慮で集めた「支持」によって、直茂は佐賀藩の実権を掌握していきます。 ■鍋島佐賀藩に残された弊害 直茂が手にした実権は、当主から実力を持って奪取したものではありませんでした。そのため、後に龍造寺高房やその子の拍庵による実権の返還騒動に悩まされることになります。これは、孝房らが佐賀藩における実権の回復を幕府にはたらきかけたものでした。 どちらの騒動においても、徳川家および龍造寺一門から直茂への「支持」は盤石であったため、幕府によってその都度却下されています。 また、佐賀藩は江戸時代初期には35万7千石を領していましたが、龍造寺一門への配慮などを行った結果、鍋島家の所領は6万石ほどしかなかったと言われています。そのため、江戸時代初期から藩財政の苦境に見舞われ、家臣や龍造寺一門などに領地返上をたびたび迫ったり、藩主導による新田開発を行ったりと苦労していく事になります。 しかも、鍋島家が龍造寺家を乗っ取ったとした「鍋島化け猫伝説」という話が作られ、歌舞伎や講談などで扱われると、世間一般では悪役として名が広まってしまいました。これが鍋島家の負のイメージの要因となっていると思われます。 ■「支持」による実権掌握に伴う不安定さ 直茂は各方面の「支持」を集める事で、なるべく穏便に実権の掌握を目指したと思われます。ただ、どういう手法であれ、龍造寺家の主導権を乗っ取ったという事実は変わらないため、一般的なイメージは当時も現代でも良いものではないようです。 現代でも、内部外部の「支持」を集める事で、組織の実権を掌握するケースがありますが、譲る側が納得していなければ、奪取や強奪というイメージから逃れられません。 不満を生まない権力交代というは非常に難しく、創始者は汚名を被る覚悟が必要です。 直茂も実権掌握の罪悪感から逃れられなかったのか、勝茂の子どもが突然死した際に、錯乱状態になって家臣を数名殺害したという逸話が残されています。
森岡 健司