フッサールの本は言葉をこう置き換えればクリアに理解できる…現象学の「超解読法」!
(1)『デカルト的省察』の超解読法
《わたしが、このような生全体を超えて、世界そのものを単純に存在するものと受けとるようないかなる存在信憑をもつこともさし控え、その世界そのものについての意識としてのこの生そのものにもっぱらわたしのまなざしを向けるとき、わたしは、わたしの意識作用の純粋な流れをもった純粋自我としてのわたしを獲得するのである。》(8節 201ページ) 【超訳】現象学的還元を遂行するとは、世界が客観存在するという自然な存在確信をいったん中止することにほかならない。つまり、現象学的還元とは世界の「存在信憑」を「さし控え」ることを意味する。このことで私は、自分の主観=意識の領域だけに注意を向ける。そこは純粋な意識の流れの領域だが(純粋意識)、この還元の遂行によって私は、自分の意識に生じている「事象自体」を内省的に洞察することができる。 《それと同時に、予測の中にまでおよんでいる存在信憑が充実されないという可能性、すなわち「それ自身」というありさまで現われているものが、そのようなありさまで現われているにもかかわらず、存在しない、あるいは別ものであるという可能性が、つねに開かれているのである。》(28節 244ページ) 【超訳】対象認識とは、対象の存在確信が意識のうちで構成されることだが、いまたとえばリンゴだと思って見ている対象が、よく見ると違うものだったという可能性が必ず存在する。つまり構成される対象確信は、経験の推移のうちで変化するという可能性をつねに原理的にもっている(これはノエマの原理的可疑性のこと)。 《事実、最も広い意味での対象〔実在的事物、体験、数、事態、法則、理論など〕がわれわれにとって存在するということ(略)、そのことが意味しているのはただ、そのような対象が、わたしに対して妥当するということ、いいかえれば、そのような対象がそのつど、ある信憑の定立的様相において意識されている意識対象として、わたしの意識にとって存在する、ということにすぎない。》(26節 242ページ) 【超訳】いっさいの対象の存在は、それらが私の意識のうちで妥当しているということ、いいかえれば「対象確信」(信憑の定立的様相)として成立している、ということを意味する。
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