フッサールの本は言葉をこう置き換えればクリアに理解できる…現象学の「超解読法」!
ヨーロッパ哲学の最大の難問=認識論の謎を解明した20世紀哲学の最高峰といわれるフッサール現象学。 【画像】認識論と存在論のパラダイムを「本当に」転倒させた哲学者 難解と言われるが、その本質を「適切に」追いつめれば誰でも理解できるのだ。 フッサールの難解さの一つは、テクストの難しさだ。しかし、正しい読み方のコツを知っていればどんな人でもクリアに理解できる。 (本記事は、竹田青嗣+荒井訓『超解読!はじめてのフッサール『イデーン』』(12月26日)から抜粋・編集したものです。)
「確信成立の構造」の解明
まず何より心にとめておくべきことは、フッサールによる認識論の解明の根本アイデアは、一切の認識を主観のうちで成立する「確信」と見なす点にあるということだ。この根本発想が、「リンゴ→赤い、丸い」という「客観」から「主観」への視線を、「赤い、丸い→リンゴの存在確信」へと逆転する「現象学的還元」の見方を導く。 なぜこのような自然的な見方を逆転する発想が必要なのか。 繰り返せば、その理由は、人文領域の認識は「事実の認識」ではなく「本質の認識」であり、そのためなによりまず、さまざまな異なった考え(確信)が成立する、認識の本質構造が解明されねばならないからである。 もういちど言うと、「社会」の普遍的認識とは、社会的事実の認識ではなく、何が社会にとって「善」であり「正義」であるか、すなわち「よい社会とは何か」という問いを本質的に含む。 この領域では、たとえば、なぜ宗教上のあるいは政治上の異なった信念が現われるのか、なぜ人文科学の分野において学説の並立と対立が生じるのか、ということが本質的な仕方で把握されねばならない。このとき「事実の正しさ」をあらかじめ前提するならわれわれはただ独断に陥るだけである。まさしくこのために、「主観」と「客観」の一致という古い認識構図は廃棄されねばならない。つまり、客観→認識(主観)という構図を、主観の経験→確信(信念)の形成という構図へと転換する必要があるのだ。 だが、この現象学的還元の方法の要諦は、そのようなものとして十分に理解されていない。すでに見たフッサールとハイデガーの不幸な師弟関係を別にすれば(参照記事:「ヨーロッパ哲学最大の難問を解明したフッサールの「不運」…いまだに「180度違う解釈」ばかりされている原因は「あの愛弟子の学問的裏切り」だった」)、その第一の理由は、なによりフッサールのテクストの難解さにある。第二の理由は、フッサールが主著『イデーン』のテクストで、「確信」の形成という言葉を使っていないことである。 フッサールは「確信」Gewissheitあるいは「信憑」Glaubeという言葉をほとんど使わず、その代わりに「妥当」Geltung(妥当の成立)あるいは「定立」Thesisという言葉を用いている。このことが、「現象学的還元」とは、意識内での「対象確信の構成」の解明であるという理解を大きく妨げている。 それゆえ、もし読者が、自発的に、フッサールの「妥当」や「定立」という用語を、「確信」あるいは「確信の成立」と置き換えるなら、フッサールの記述の難解さは大いに軽減され、多くの読者は、現象学的還元の方法の意味を明瞭に受けとることができるはずである。 右のような理由で、ここでも私は、『イデーン』のテクストの読解を助ける上での一つの補助線を引いておきたい。『デカルト的省察』『危機』などの後期の著作の中では、現象学の探求が、対象の「存在確信」や「世界確信」の構成の記述であることを、フッサールが明瞭に述べている箇所が多く見られる。 そこで典型的な箇所をいくつか引いて、簡単にコメントをおいてみようと思う。
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