たかが公文書? 改ざん問題が孕む国民と政治家の断絶
「時の政権」か「国の威信」か
それでは、議会制デモクラシーを機能させる上で不可欠な「信頼」が低下する状況に対して、どうすればよいか。かつては、都合の悪い情報は国民に見せないことで、全てうまくいっているというメッセージを政治家と官僚が発信し、辻褄を合わせるということも試みられてきた。この策で人びとを欺けるときもあろう。しかし、上記の出来事のように真実が明らかになってしまった時の有権者のバックラッシュ(反発)は激烈であった。 ウォーターゲート事件では1974年8月、ニクソン大統領が辞任に追い込まれ、2003年に始まったイラク戦争への参戦を決めた英国のブレア首相は信頼を失い、その後、職も追われた。ロッキード事件では事件発覚後の衆院選(1976年12月)で自民党が過半数割れに、リクルート事件では竹下登内閣の総辞職(1989年4月)とその後の政治改革につながった。 そこで重要となったのが、信頼に値する「情報と説明」の提供である。近年、情報公開が盛んに言われるのも、「政治家・官僚」と「国民」の距離を縮めることを一つの狙いとしている。そして、その情報や説明に基づき、有権者は選挙で政治家を信任したり、落選させることで罰したりする。正しい情報と説明は、有権者の判断の妥当性を支え、有権者が真に主権者となる支柱である。正しい情報と説明がなければ、政治家が本当に人びとの意思を代表して判断を下しているのかは分からない。つまり正しい情報と説明は、有権者と政治家をつなぐ“橋”である。 仮に、政治家や官僚の作成した文書が事後に改ざんされていたらどうなるか。政治家や官僚に対する人びとの信頼は傷つけられ、人びとは政府の情報を信用しなくなる。経済成長、財政赤字、累積債務、治安、原発、対外的な安全保障上の危険――などの実態について、有権者が政治家や官僚を信用しなければどうなるか。「私たちの代表」という観念は姿を消し、政治は「あの人たち」が勝手にやっていることとなってしまう。政治家の情念や政治家の「お友達」のために、なぜ私たちが税金を払ったり、ルールに縛られたりしなければならないのか。政治が国民の合意を取り付けることに失敗すれば、秩序は失われるか、押し付けられることになる。 普段の生活の中で、私たちは秩序について考えるとき、自分が何かを強制されるとはあまり考えないかもしれない。それは他の人の話であって、自分は悪いことはしていない、と。しかし、私たち自身が政治を制御できなければ、いつ私たち自身が何かを強制される立場に立たされるか分からないのであり、助け合いたいときに政治が手を差し伸べないということも起こりうる。そうした政治が突き進むと、最悪の場合、財産の没収(課税など)、身体の拘束、言論や行動、思想の自由への制約、政治社会からの放置、戦争などの対外的な緊張の増幅といった形で、制御できない政治権力は私たちに害をもたらす。 政治機構の発信する情報や説明が信用できなければ、対外的にも日本の信頼は失われ、市場にも不信感が広がろう。日本の発信する情報をベースにして他国や市場のプレーヤーが判断をしなくなり、正しい情報を発信したとしても、信用してもらえない事態は、国の利益になるはずがない。正しくない情報や説明を提供することで、国の威信を守ろうとしているのかもしれないが、それは時の政権を守ることはあっても、国の威信は深く傷つけられている。 その上、国民が正しい情報と説明を提供しない政治家を選挙で罰しなければ(あるいは罰することができなければ)、政治家の方が有権者を操作できると自信を持ってしまうかもしれない。そうなれば、国民が政治家を通して政策の自己決定をしているという代議制デモクラシーは、もはや成立しない。もし政治機構がそれでも作動しているとすれば、それはもはや国民と政治家が断絶し、政治家の意思が優先される「権威主義体制」である。それは国民にとって望ましい政治のあり方ではないはずである。