たかが公文書? 改ざん問題が孕む国民と政治家の断絶
日本政治の歴史でこれほど公文書が注目を集めたことはなかったかもしれません。森友学園や加計学園をめぐる一連の問題をはじめ、陸上自衛隊の日報問題などでは、行政が作成した文書がなかなか見つからなかったり、内容が改ざんされたりしたことが相次いで明るみになりました。 【写真】政治改革の鬼っ子? ── 安倍首相の政治戦略(2015年1月掲載) しかしこうした問題は、私たちの生活にはさほど影響がないと感じている人もいるでしょう。「たかが公文書」なのでしょうか。この問題が孕む議会制民主主義(デモクラシー)の危機は、どんな未来を導く可能性があるのでしょうか。 議会政治制度や英国政治に詳しい成蹊大学法学部の高安健将教授に、2回にわたって寄稿してもらいました。
かつては信頼のあった「偉い人びと」
「デモクラシー」とは、自らの運命を自らが決めるという理念であり、仕組みである。それ故、私たちは、民主主義でも民主政治(制度)でもなく、カタカナでデモクラシーと表記する。その中でも「議会制デモクラシー」(=代議制デモクラシー)とは、代表となる政治家に個々の決定を委ねるデモクラシーである。「政治家=代表」の存在が重要であるのは自己決定権、あるいは別の言い方をすれば主権を有する人びとが本来もっている権力と権利を政治家が代わりに行使するからである。日本は「国民主権」を憲法でうたっており、政治家は「われわれ国民の代表」なのである。 今日の政治機構は、複雑な利益が錯綜する現代社会を反映して巨大であり、大きな権力を持つ。だから一般の国民にとって、その政治機構が実際に何をしているのかを知ることは容易ではない。もし政治機構を信頼できなければ、政治機構の外側に別の監視機構をつくって、これを監視しなければならない。しかし、その監視機構を信じられなければ、さらにその監視機構を監視する機関をつくらなければならない――。政治機構を信頼できなければ、社会は際限なく別の監視機構を作らねばならず、それでも不十分であれば、政治機構に権力を委ねることを諦めなければならない。政治家が有権者からの信頼をある程度得ることができなければ、複雑で大規模な政治の舵取りをする現代のデモクラシーは機能しないのである。 かつて日本でも「偉い人」はものをよく分かっており、皆のことを考えて判断してくれている、という漠然とした信頼があった。これは英米でも同じである。しかし、人びとの教育水準が上昇し、またスキャンダルや政策的失敗の実態が明らかになるにつれ、人びとが政治家に寄せる無条件の信頼は、英米のような国々でも低下してきた。実際、日本のロッキード事件やリクルート事件、米国のウォーターゲート事件やベトナム戦争、あるいはイラク戦争開戦のような各国の政策的失敗を目の当たりにすると、政治家に「お任せ」にするわけにもいかない事情は理解できる。