「ネタバレされても平気?」「映画のエンドロールは最後まで見ない派?」…”昭和なコラムニスト”と”今どきの若者”の「決定的な違い」
最後まで見ないやつは人間ではない!?
そもそも「スターウオーズ」以前(1978年以前)は、エンドロールがなかった。 映画本編が終わったら全員すぐさま席を立つことになっていた。 昔の小津安二郎とか黒澤明などの映画や、洋画もそうだけど、スタッフ名も出演者も、最初に流れる。映画本編が終わったら5秒で「終/fin」の字が出て、15秒で明るくなった。いま見ると気楽でいい。負担が少ない感じがする。作品に対する共犯意識が薄くてすむ。 高田馬場にいまも残る二番館(名画座)の早稲田松竹は、近くなのでときどき行くが、昭和からつづく古い映画館ながら、シネコンの入場方式を手作業で真似ている。 事前にチケットを買うと、席は何処にしますかと、紙に書かれた座席表を示されて聞かれるので、えーと、ここにしようかなと指でさすと、Cの2ですねと、座席表をペンでチェックを入れて、その座席番号をチケットに書き込んで渡してくれる。めちゃ手作業の座席指定なのだ。ご苦労さまです。 途中入場はできない。 映画のエンドロールを最後まで見ないやつは人間ではない、作品へのリスペクトがなさすぎると言われるのは、つまり、いまはわざわざ映画館に見に行くのは大事な作品だけだという傾向があるからかもしれない。 スタッフも監督も、声優もすべて把握していて、わかっているものを見に行くから、リスペクトをもって、最後の最後まできちんと見る、それが人として正しい、というわけだ。 適当に映画館に入って、さほど興味もない映画を見る、というのは、完全に昭和のスタイルのようである。ひょっとして、このへんでやってるのは私だけかもしれない。 そういう無駄は避けたがる。 若者にはたくさん時間があるのに、とおもうのは老人だけであって、若者はいつも忙しい。若者は、ふつう無駄は避けようとする。人生が無駄だらけで避けようがない、と気づくのにはそこそこの人生経験が必要なのだ。まあ、私はちょっと無駄を好んでやりすぎだとはおもうが。