小説家・山内マリコが振り返る「自身のキャリア」 「作家は信用商売。書いてきたものは裏切らない」
私が10代だった1990年代は、雑誌や本で見るサブカルチャーの世界が輝いていました。ところが2000年代が進むにつれて、アニメやアイドルのオタクカルチャーが勢いを増して、産業として成立していきます。サブカルって、それ自体ではあまりお金を生み出さないんですね。経済に余裕があってはじめて成立するところがある。好きだったカルチャーが完敗していくのを横目で見ながら、でも自分もあの世界に行きたいんだよという気持ちで、20代はずっと踏ん張っていました。
本や小説を、少なくとも私は、かっこいいものだと思っています。10代のころに自分が憧れていたような、素敵なものでありたいし、あってほしい。装丁にこだわるのも、そういう思いがあるから。文学には、かっこいい若者カルチャーであってほしいし、自分が若い頃に背伸びして手にとった本や映画、そこからいろんなことを学んだように、私の小説もそういう存在になったらいいなって。
プロは出し切ったあとが勝負
――デビューしたあと、山内さんは小説だけではなく、雑誌のコラム連載もたくさんされていましたよね。
山内:連載を抱えていたマックスの時期は2015年か16年くらい、小説だと「あのこは貴族」を書いていた頃ですね。毎週の締め切りが「週刊文春」と「アンアン」、隔週で「テレビブロス」、その他にも連載と、単発の寄稿や書評、映画のレビュー、掌編小説、短編小説、とにかく書きまくってました。
――みうらじゅんさんが、ご自身を筆頭に雑誌の世界で有名な書き手を「雑誌タレント」と名付けていましたが、その最後の世代が山内マリコと武田砂鉄かなと。
山内:砂鉄さんの連載量に比べたら全然です。私より上の世代だと、しまおまほさんかな。私が雑誌タレントとして忙しかったころは、どこへ行っても何を見ても頭の片隅で、これはあの媒体にこう書いて~みたいなことを考えていました。すごく疲れた(笑)! 私は雑誌で育ったので、媒体に合わせて書き方も変えるし、お題があればいくらでも書けるんです。ただ、目の前の雑誌の締め切りに追われるうちに、肝心の小説のほうがうまくまわらなくなってしまった。