連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.42 BMW M1&M1Procar
70年代の半ば、筆者は当時の西ドイツに住んでいた。2年半の滞在の大半は、ミュンヘンに住んでいた。御存知の通り、そこはBMWの本社が存在する。そして筆者のアパートは、そのBMW本社から徒歩数分の場所にあったから、BMWは言わば散歩コースであった。当時広大なBMW本社工場と隣接する本社ビル、それにお椀の形をした博物館は1周するのに恐らく1時間近くはかかったように思う(もちろん徒歩で)。記憶が正しければその北の端にBMW M GmbHの小さな工場があった。 【画像】今見ても魅力あふれる、BMWのミドシップ・スーパーカー、M1(写真10点) BMW M GmbHは1972年に誕生した、言わばBMWのハイパフォーマンスカーを製造する部門。そして、その第1号のモデルとして誕生したのが、M1であった。M1の開発は、1975年当時に始まったとされている。まさに私がミュンヘンに滞在する1年前。そしてこのプロジェクトは、ミッドエンジン車の経験がなかったBMWが、そのパートナーとしてランボルギーニを選び、彼らがFIAグループ4のレギュレーションを満たすための400台を生産することになっていた。しかし、当時のランボルギーニは財政難の真っただ中にあり、果たしてそれがBMWからの着手金だったかどうかは定かではないが、それを使って最初のプロトタイプを完成させ、さらにランボルギーニの工場内には、カウンタック、ウラッコのラインと並んでM1と表示されたラインが、1978年当時には存在していた。当時ランボルギーニを取材した際、それを見た筆者は案内してくれたランボルギーニの広報マンに、「これは?」と質問すると、彼は「これは我々の希望です」と答えてくれたが、その時点ではすでにBMWとの契約は解除されていたはずである。 そんなM1を一度だけミュンヘンで見た。当時のM GmbHの工場は、古臭い観音開きの木の門で締め切られていたが、中から何やらただならぬエンジンの咆哮が聞こえたので、表で待っていると、その門が開き、中からホワイト(だったように記憶する)に塗られたM1が出てきた。もちろんフロントエンドのキドニーグリルには目隠しがされていた。その時のエンジン音は、どう考えてもV8だったのだが、それを示す証拠はどこを探してもない。勝手にシャシーテスト用にランボルギーニのV8を積んでいたと解釈していたが、間違いかもしれない。いずれにせよ、その覆面車のM1のエンジンはただならぬ轟音を立てていた。 M1のヒストリーは、完全に新しいレースカーをゼロから設計し、ホモロゲーションに必要な量のロードバージョンを生産するというコンセプトだった。しかし組んだ相手(ランボルギーニ)が悪く、結果的に複数のイタリアン・エンジニアリングに任せることになった。それらはチューブラースペースフレームを設計したジャンパオロ・ダラーラ、ボディのFRPを生産したTIR、シャシーの製造をしたマルケーズィ、そしてボディのアッセンブリングとデザインを担当したのが、ジゥジアーロのイタルデザインである。 心臓部となるエンジンは、もちろんBMW製。ポール・ロシェの設計と言われるM88と名付けられた、直列6気筒DOHC24バルブエンジンである。3.5リッターの排気量から277psを絞り出していたと言われる(諸説あるようだが)。トランスミッションはZF製の5速マニュアルで、ファイナルアッセンブリングはドイツに持ち帰り、シュトゥットガルトのバウアーが行ったというから、生産に関してはBMWはほとんど関与していない。実際の作業はファイナルインスペクションとテストドライブだけだったようだ。 そんなM1だが、元々はレースに出場するための400台だったにもかかわらず、生産の遅れやレギュレーションの変更などによって、出場するレース機会を失い、56台作られたというレーシングバーションは、F1の前座レースとして開催されたプロカーチャンピオンシップというワンメイクレースで活躍した。グループ4に出場するためには400台の生産が必要だったが、結局ロードカーとして生産されたのは399台だったらしい。そしておよそ450台と言われる総生産台数の残りはレースカーとして生産され、このうち44台がオゼッラによってプロカーとして生産されたようである。因みにプロカーのエンジンは、オリジナルのM88をベースにチューニングがほどこされ、470psの出力を持っていた。 いずれにせよ、車両のみならずエンジンに至るまですべてハンドメイドされたM1は、極めて貴重な存在と言って過言ではない。珍しい黒に塗られたロッソビアンコ博物館のM1は、シャシーナンバー4301171である。博物館が閉鎖された2006年にはボナムスのオークションで売りに出たが、その時は売却に至らず、その後の消息は分からない。 もう1台のプロカーの方は、1969年にレーシングドライバーだったミヒャエル・クランケンベルクが設立したMKレーシングのカラーを纏ったモデルだ。彼自身、1986年のルマン24時間にこの車で出場。その後ニュルブルクリンクにこのケンウッド・スポンサーのカラーリングで出場したものの、アクシデントでリタイアしている。その後もクランケンベルクのドライブで、どこかのレースに出場したのだろう。ゼッケン8は少なくともニュルブルクリンクの時のものではない。残念ながらシャシーナンバーが不明で、その後の消息は分からない。 文:中村孝仁 写真:T. Etoh
中村 孝仁 (ナカムラタカヒト)