幕末期の玉砂利敷通路が出現。将軍慶喜も歩いたかもしれない。大坂城跡で新発見/大阪
大阪城天守閣周辺で行われている「特別史跡大坂城跡」の発掘調査現場が3日、一般公開され、防衛施設である櫓(やぐら)と天守閣を結んでいた幕末期の玉砂利敷通路とみられる遺構が発見されたことが分かった。徳川期大坂城の絵図にも描かれていない玉砂利敷通路が見つかったのは、初めて。戊辰戦争時「大坂城」に布陣していた将軍徳川慶喜も、通路の玉砂利を踏みしめたかもしれない――などと、歴史ロマンに誘ってくれる。
想定外の玉砂利敷通路が出現
公開された発掘調査現場は、天守閣に隣接する金蔵(重要文化財)東南部の2カ所。地下に埋もれている豊臣期大坂城の石垣を公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」に先立ち、周辺に残る遺構の状況を把握するため、大阪市教育委員会、大阪文化財研究所などが合同で調査してきた。 金蔵の南側(西調査)からは、東西方向に走る石列と石組溝が確認された。先行調査の成果も踏まえ、江戸時代には金蔵を取り囲むようにして柱と板で作られた塀が張り巡らされていたと考えられる。塀の高さは不明ながら、周囲から目隠しをして金蔵を守る機能を担っていたようだ。 金蔵からやや離れた東側(東調査区)からは、当初の推定通り、古い瓦を捨てる瓦廃棄穴が見つかったが、想定外の遺構も出現した。玉砂利を敷いた道だ。
櫓と天守閣をつないでいた通路か
大小の玉砂利を敷き詰めた道の幅は1.2メートル。道の端には瓦を埋め込み、城内の通路らしい格式を醸し出す。京嶋覚大阪文化財研究所統括研究員が次のように話す。 「玉砂利敷の道は徳川期大坂城の絵図に描かれていませんし、発掘調査で発見されたのも初めてです。発見された道は馬印櫓のあった方向から天守閣の方向へ延びていますから、櫓と天守閣をつなぐ通路のひとつだったのではないかと思われます。幕末期には地表面だったと考えられますので、大坂城内に駐在する武士たちが行き交ったことでしょう」 戊辰戦争開戦の一時期、大坂城に布陣していた最後の将軍徳川慶喜も、策略と不安を交錯させながら玉砂利を踏みしめていたかもしれない。城内の通路はどんな状態だったのか。これからの大坂城研究テーマのひとつになりそうだ。
葵の家紋入りの割れた鬼瓦を展示
大坂城は戊辰戦争で城内から出火し、馬印櫓を含む多くの建造物が消失。瓦の廃棄穴は明治初期、終戦処理の城内整備に伴い設置されたものだ。 廃棄穴からは、葵の家紋入りの割れた鬼瓦などが出土。屋根の上から徳川家の威光を示していた鬼瓦が焼け落ち、葵のご紋が裂かれた状態で廃棄されていた。徳川幕府から明治新政府へ。歴史の激動を物語る出土品が、発掘現場に展示してある。 現地説明会は5日まで(午前10時から午後4時)。詳しくは大阪市ホームページで。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)