<偉人の愛した一室>日本外交の父・陸奥宗光が『蹇蹇録』を記した別邸の原形を残して再建された大磯「 聴漁荘」
明治期の偉人たちが愛した大磯
江戸時代に海水浴という考えはない。85(明治18)年、陸軍軍医の提唱で、健康増進を目的とした海水浴場が大磯に開かれたのが最初とされる。以降、この地は要人たちの保養地として発展を遂げるのだが、その中心となったのは伊藤博文を頭とする憲政派だった。 別邸のある小田原への道すがら、この地の風光に目をつけていた伊藤は、96(明治29)年、浜辺に面した丘陵地に新たな邸宅を設ける。陸奥と大隈重信も同じころに別邸を建設するが、陸奥には、肺の病の療養という、より切実な目的があった。 現在、3人に西園寺公望を加えた4人の別邸が、国交省関東地方整備局により維持管理されている。ただし、陸奥邸についていえば、次男が養子に入った古河家によって、昭和に入って建て替えられたものだ。寄棟造りの木造平屋建て、家族と来客用に多数の部屋がある他、使用人部屋も備わる豪壮な和風建築である。 「聴漁荘」と掲げる玄関を入ると、前室を隔てて、右が書生部屋、左手に8畳と10畳の和室が海に面して連なる。図面や写真を基に作成された陸奥の時代の建築模型が展示されていて、比較すると、この二間はかつてに倣って作られたように見える。 格天井に欄間、床の間がつく設えから、10畳の間が陸奥の療養した主室兼応接間であり、8畳は家族の居室だったと想像される。三国干渉の最中も、陸奥は床に横たわったまま、伊藤の諮問に応じ、外務省に指示を出したという。 この二間には畳敷きの入側(縁側)が回され、外側3分の1ほどは板敷きにしてある。いまは敷地と浜辺がバイパス道路で遮られるが、陸奥の頃には、砂浜を楽しんだ足で、そのまま家に上がったものだろう。 この入側に立つと、いまも潮騒が聞こえてくる。激務を縫って床に横たわる陸奥の耳に、湘南の穏やかな波音はどんな感懐を呼び起こしたろうか。寸暇もなかった来し方か。或いは、故郷の紀州を想って子守歌のように聞いていたかもしれない。 大磯での陸奥の療養はわずか2年で終わった。それでも、海に向かう松林の中で英国式にお茶を楽しむ写真が残されている。傍らには〝鹿鳴館の華〟と謳われた亮子夫人の姿も。 衰えゆく日々の中、陸奥は寸暇を惜しんで回顧録の筆を執る。いまに遺された克明な外交記録は『蹇蹇録』と名付けられ、明治外交の第一級史料となった。
羽鳥好之