<飛躍の春に>20センバツ・倉敷商 OBからのエール/1 一投一打を楽しんで 松岡弘さん(72) /岡山
「高校3年間はあっという間。その日その日、一投一打を楽しみなさい」。倉敷商卒業後、プロ野球・ヤクルトのエースとして活躍した松岡弘さん(72)は、高校時代を懐かしみながら後輩にエールを送る。 【動画】センバツ出場校、秋季大会熱闘の軌跡 1963年に入学した当時は内野手だったという。「人生で一番の転機かもしれない」と振り返るのは、2年の秋のこと。同級生で主力だった矢吹昌平投手が右腕を負傷し、当時の監督から強肩を買われて投手を任命された。それまで投手経験は一切なく、戸惑いはあったが「どうせやるなら負けたくない」と、必死に練習した。当時の同級生は10人。「とにかくがむしゃらに投げた。みんなでレギュラーを取って、一日でも長く一緒に野球がしたかった」。仲間の存在も原動力になった。 3年夏の岡山大会は、松岡さんの熱投で決勝まで勝ち上がり、のちにプロ野球・大洋(現横浜DeNA)で活躍した平松政次投手を擁してその年の春のセンバツを制した岡山東商と対戦。それまでの連投による疲労で腰痛を抱えながら登板したが、日没引き分け再試合の末、2―5で敗れて甲子園には手が届かなかった。ただ、悔しさよりも達成感の方が大きかった。「今思うと、数カ月の練習でよくあそこまで投げられたな」とほほえむ。 卒業後は社会人野球の三菱重工水島に入社し、68年にチームを都市対抗初出場に導くなど活躍。同年にサンケイアトムズ(現ヤクルト)に入団し、78年には球団史上初の日本一に貢献するなど通算191勝を挙げた。「あの時、みんなと一緒に野球をするために投手に挑戦したことがこんなに財産になるなんて」。現役引退後はヤクルトなどでの投手コーチやテレビ、ラジオでの解説者も務めた。 昨年10月まで東京大学硬式野球部の投手コーチを務めるなど、学生野球の指導にも力を入れる。8年ぶりの母校の甲子園を、「やっと応援に行ける」と喜び、「野球は常に展開が変わるスポーツ。打撃も守備も一人一人が状況を判断して動かなければならない。そのためには準備が大事」と、練習の大切さを強調する。「今の仲間たちと一緒にセンバツに行けるのはこの瞬間だけ。一戦一戦必死に戦えば、きっといい思い出になる」【松室花実】 ◇ ◇ 1931年の創部以来、数々の名選手を輩出してきた倉敷商野球部のOBに、8年ぶりの甲子園に臨む選手たちへの思いを聞いた。