「コーチは教えない」と言うけれど
他人の課題に踏み込まない
欧米でフロイトやユングと並ぶ「心理学者の三大巨頭」の一人として高く評価されるアルフレッド・アドラーの提唱した「課題の分離」という概念があります。私の理解では「課題の分離」とは、健全な人間関係を築くために、自分の課題と他者の課題を明確に分けて適切に対応することです。 アドラーは、ビジネスであれ、プライベートであれ、たいていの対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こる、と言います。この概念に照らし合わせると、先のSさんは高い次元で「課題の分離」を実現できているリーダーといえそうです。 周囲へのインタビュー結果をSさんにフィードバックする際、私は自分のSさんへの第一印象がインタビューを重ねる中で見事に裏切られていったとお伝えし、改めて、部下と関係を構築する上でのSさんの考え方を尋ねました。 すると、Sさんも米国赴任当初は、プロジェクトの進捗を自ら細かく管理し、重要な決定は自分で下そうとしていたといいます。しかし、そのうちプロジェクトが停滞気味になり、部下たちが主体的に動いてくれない状況に不満を感じるようになります。 なぜ進捗が遅いのか、どこに問題があるのかを考えたとき、Sさんの脳裏にふと浮かんだ問いがありました。 「リーダーたちに本来の責任を委ねず、自分が全てをコントロールしようとし過ぎていないだろうか?」 Sさんは、自分がプロジェクトを率いるリーダーたちの裁量を尊重しきれていなかったことに気づき、行動を変える決心をしました。この気づきは簡単に得られたものではありません。プロジェクトが思うように進まない現実に直面し、何度も何度も失敗や遅延が起きる中で、初めて見えてきたことだったそうです。 行動を変えることも簡単ではなかったといいます。プロジェクトの進捗を不安に感じることはしょっちゅうで「あのやり方ではだめだ、自分がやった方が確実だ」という思いや、途中で状況を確認しアドバイスしたくなる衝動を抑えることが難しいときもありました。しかしSさんは「押してもうまくいかないのだから、もう引くしかない」と、半ば切羽詰まって「リーダーの成長を信じる」ことを決め、プロジェクトの決定権を完全にリーダーたちに委ねました。 時間が経つにつれ、リーダーたちが自信をもってプロジェクトを進めるようになり、その部下たちも主体的に動くようになっていきました。最終的にプロジェクトは成功し、Sさんはチームに任せることで得られる結果の素晴らしさを体感したと話してくれました。 部下を信じて任せる。部下の課題は部下の課題として扱う。自分は口を出したり、手を出したりしない。Sさんのそのスタイルは、私の理想とする「教えない」あり方です。