東京23区大学定員抑制は少子化対策か──地方大は若者流出防ぐダムではない
農村は昔から都市に人口を供出してきた
それでは、江戸時代から明治の日清・日露戦争のあたり、19世紀いっぱいぐらいまでの出生率と死亡率をみてみましょう。大都市圏の出生率は、農村・地方圏よりも明らかに低い。そして死亡率は、大都市圏の方がずっと高い。農村の方が健康にいいんですね。長生きできる。都市では人口の自然減が常に起きていた、といえます。私の恩師、速水融さんの表現では「都市蟻地獄」、あるいはヨーロッパでは「都市墓場」という言い方もありますが、都市が人を“食ってしまう”。出生率が低く、死亡率が高い社会です。 では、江戸の人口100万はどう維持できたのか。農村から人がやってきていたからです。農村では、出生率が死亡率よりずっと高かった。だから、明治期から昭和の高度経済成長まで、この江戸時代のパターンと同じで、地方圏の高い出生率が補っていたのだと思われます。つまり、人の流れ、人口移動がないと、都市は維持できなかったんです。近代以前から、農村から都市に来るということは当たり前であったし、それがなければ、都市は維持できなかった。また、江戸時代の特に商家は、一人前になるまで家族が持てなかったから、地方から都会へ来ても、単身者が多いソロ社会でした。だから吉原のような遊郭ができたりするわけです。 明治から終戦直後、戦後の高度経済成長までは、日本全体ではその時期、3300~3400万人から8000万人ぐらい、2倍以上まで人口が増えるわけですが、農業や林業も含めた農村人口は大体400~500万人の間で100年近く安定しています。そのころも、跡継ぎは農村部に残るけれども、特に農家の二、三男、あるいは女の子も都市へ出てしまったから。 ただ江戸時代は男性が多い、女性も結婚しないソロの社会だったということ。それがちょうど、土地がなくても安定して生きていける社会になったんですね。都市に出て来た人が何をしたかというと、工場労働者であったり、商店だったり、会社の事務仕事をやったり、新しい仕事がどんどん増えてきて従事したわけです。 さらに、農村よりも高かった死亡率が、今度は逆転して低くなる。上水道が整備されて都市の方が環境として良くなってくる。都市でも出生率が、死亡率よりも高くなった。つまり都市圏で人口が維持できるようになってきた、ということです。明治以後に都市にやってきた人たちが、働き方も奉公人とかではなく、雇用形態が変わったこともあって、家族形成して、そこで、家族を持てるようになりました。 特に20世紀に入ってからの時代は、安定して都市で人口が自給できる上に、農村は、出生率が高くて人口を増やしていた時代だった。ところが、まずは都市部で1920年代ぐらいから出生率が落ち始めて、農村部でも昭和、特に戦後、急速に出生率が落ちていった。さらに高度経済成長のときに、農村の基幹的な労働力であった跡継ぎになる人まで都会へと出て行ってしまったことで、どんどん人口が増えにくい状態になってしまった。そして農村部では、人口維持できなくなった。ですから今、人口減少を大騒ぎしていますが、統計を調べれば、1950年代ぐらいから減少している県はあるわけです。 つまり、かつて農村部の人口が労働力を供給して、都市へと送り込んだ背景には、地方圏の出生率が非常に高かったということ。そして、出生率が高い間は問題視されなかったのですが、それが全国に広がったから、大騒ぎになったということです。 だから今、若者がどうして都市へ行ってしまうのか、どうやって地方に留めておけばいいのか、という議論がありますが、これを完全にシャットアウトすることは無理だということです。留めておいては、若者は元気にならないし、国外へ留学したり、外で働いたりしなきゃ。中に縮こまっていてはやっぱりだめですよ。 都心の大学定員増をストップ、あるいは減らそうという動きや、地方圏でもっと大学を作るべきだという議論もあります。静岡も、高校を卒業して進学する人の半分も自分の県の大学の定員では吸収できないですからね。だから、文部科学省がやろうとしていることが、正しい、正しくないとは言えないけれども、これは応急の策でしかない。本質的なことではないです。仮にそうやって若者が外へ出て行っても、人口が維持できる社会をどう作るかということが課題です。 ほぼ100年近くかけて、出生率の低下が、まず都市部で始まって、農村部では急速に落ちた、ということ。そして、地方圏では人口を自給できる以上に都市へ人が流れていくことになったということ。そういう人口動態をよく見ておかないと、(地方の)大学は若者を都市へ逃さないためのダムになれ、という期待をされても困りますね。