富士山と宗教(13)9合目の行倒人の遺体をめぐり、争い再燃
頂上支配の確定に徳川家康の「威光」
こうした中世における富士山をめぐる複雑な支配関係は江戸時代になってからも慣例として続いたが、徳川の治世が続く中でその構図に軋みが生まれ、それが元禄と安永の争論に発展した。 大高准教授は富士山本宮と徳川家康の関係について「関ヶ原の戦いの後に遷宮を行っていて、浅間大社(富士山本宮)が戦乱で荒れてしまった建物を再建していることは間違いなく、徳川家康が浅間大社と関わりがあったことは事実です」と話す。 「ご祭神が祀られている噴火口の深さが200メートルほどあり、ちょうど8合目から上くらいの深さになるのでそこから上は境内地だということです。浅間大社は徳川家康の時代に権利として(8合目から上を)もらったと元禄の争論の時にも言っていたわけですが、元禄の争論ではその点については確定されず玉虫色で決着、それが安永の争論で確定しました」 8合目以上の支配権のお墨付きを江戸幕府から得た富士山本宮。徳川家康の「威光」が富士山本宮の頂上支配を決定づけたと言えるのかもしれない。