8万人の命を奪った「串刺し公」、ドラキュラ伯爵のモデル、ヴラド3世の恐るべき生涯
敵の拷問や処刑をはじめ、暴虐の限りを尽くした中世ワラキア公国君主
ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」のモデルの一人と言われるヴラド3世は、現在のルーマニア南部にかつて存在したワラキア公国の君主だった。ワラキア公国は1859年にモルダビア公国と統合し、ルーマニア王国として生まれ変わる。ヴラド3世は、1448~1476年の間に断続的にワラキア公国を統治し、ヴラド・ドラキュラ(ドラゴンの息子という意味)とも呼ばれていた。 ギャラリー:拷問具や要塞も、ヴラド3世の恐るべき生涯 写真と画像22点 しかし、敵を拷問するなど暴虐の限りを尽くしたことから、ルーマニア語で「ヴラド・ツェペシュ」、すなわち「串刺し公ヴラド」という呼び名で最もよく知られるようになった。一部では、その生涯の間に8万人以上の命を奪ったともいわれている。犠牲者の多くは、串刺しにされて殺された。 ヴラド3世の悪行が15世紀のヨーロッパに知れ渡ったのは、ちょうどその頃発明された印刷機のおかげだった。敵の手によって書かれたヴラド3世を非難するプロパガンダ冊子は、当時ベストセラーとなった。 それから数百年後、古い歴史書の中にドラキュラの名を見つけた作家のストーカーは、ドラキュラとはワラキア語で「悪魔」という意味もあることを知り、自らの小説に登場する吸血鬼にその名を与えた。一方で現代のルーマニアにおいては、ヴラド3世はオスマン帝国の軍隊やドイツの商人から国を守った人物として、国民的英雄のような存在にもなっている。
ワラキア公の座をめぐる争い
ヴラド3世は、現代のルーマニア中部トランシルバニア地方で、1431年に4人兄弟の次男として誕生したとされている。 その年、父親であるヴラド2世はハンガリー王が創設したドラゴン騎士団の団員に叙任され、ドラクル(ドラゴン)という姓を与えられた。そして息子のヴラド3世は、「ドラゴンの息子」を意味するドラキュラあるいはドラキュリアと呼ばれた。 1436年に、ハンガリー国王で神聖ローマ皇帝のシギスムントにより、ヴラド2世はワラキア公となるが忠誠関係は続かず、ハンガリーと対立していたオスマン帝国の皇帝ムラト2世と同盟を組む。するとムラト2世は、忠誠の証としてヴラド2世に対し、息子のヴラド3世とその弟のラドゥ美男公を差し出すよう求め、兄弟はとらわれの身となる。 1447年、国内の貴族による反乱でヴラド2世は暗殺され、ヴラド3世の兄であるミルチャ2世も、目をつぶされて生き埋めにされた。暗殺を扇動したハンガリー摂政のヤーノシュ・フニャディは、別のワラキア貴族であるヴラディスラフ2世を新たなワラキア公に任命した。 この出来事がヴラド3世の復讐心に火をつけたかどうかは不明だが、1447年頃にオスマン帝国から解放されると、ヴラド3世はすぐさま行動を起こした。 1448年、16歳だったヴラド3世はオスマン帝国の助けを借りて、ヴラディスラフ2世を追放し、権力の座に就いた。ところが、そのわずか2カ月後にハンガリーがヴラディスラフを再びワラキア公に据えたため、ヴラド3世は国を追われ、それから8年間オスマン帝国とモルダビアを転々としていた。 この間に、ヴラド3世はオスマン帝国からハンガリーに鞍替えしたようで、ハンガリーから軍事支援を受けるようになった。ヴラディスラフの方は逆にオスマン側に寝返り、こうして再びワラキア公の座をめぐる争いに火がつけられた。1456年7月22日、ヴラディスラフと直接対決したヴラド3世は、ヴラディスラフの首をはねて、公位を奪還した。