《ブラジル》記者コラム=ジョブスより幸せ度が高い白寿移民 「私は世界で一番幸せな男です」
激動の人生を送った戦後移民の生き様
15日、99歳以上の生誕を祝う白寿者表彰式がブラジル日本文化福祉協会の大講堂で盛大に行われ、36人がその栄誉に浴した。うち22人が本人出席で、11人が家族の代理出席だった。 石川レナト文協会長は「様々な困難を乗り越えて、99歳以上を迎えられた皆さん、日系社会を作り上げて下さった人生の大先輩である皆さんに、感謝を捧げます」とお礼の言葉を贈り、来賓から白寿者に表彰状とプレゼントが渡された。 白寿者を代表して、佐野武さん(100歳、静岡県出身)が、次の返礼の言葉を述べた。 《なんと温かい、盛大なおもてなしを受けたことでしょう。危険な地政学的リスクにさらされております母なる生国日本に比べ、その恐れのごくごく少ない、天然資源の豊かな、ここ養国ブラジルで、このような温かい、私たち36人の生誕100歳の祝福を受け、記念品までいただき、ただただ感激、感謝のいたりでございます。 顧みますと昭和20年、学徒出陣のもと東京渋谷の関東軍自動車部隊に入隊、B29の東京急襲では嵐のような焼夷弾、250キロ爆弾の洗礼を受け、それでもなお、福島の山奥で、アメリカ本土逆襲攻撃訓練に明け暮れておりましたが、終戦。
サンパウロから帰国していた親戚の誘いのままに、1956年オランダ船チチャレンガ号にて、70日間の航海、そしてカフェ農園で働きました。私たち、言葉も通じない、西も東も分からない所で、汗と涙、血の出るような思いも堪えて、コロノ(農業労働者)として働きました。私も土地を求めて自営、ブラジル国境警備騎兵連隊への青果物供給の出入りを許され、ポンタポラン市、隣国パラグアイ国ペドロ・ファン・カバリェロ市に五つのスーペルメルカードを経営させていただきました。 その間、2回の祖国日本訪問、そして15年間の日本就労もさせていただきましたが、なんということでしょう――苦楽を共にした最愛の妻の突然病死の悲劇に襲われてしまいました。その悲しみを癒すために、更に5年の日本滞在を重ねました。 ただいまは、子供、娘夫婦の手厚い介護、保護を受けながらサンパウロ市アクリマソンにて、温かい100歳の静養をさせていただいております。 不肖本日、この栄典に推挙されました36名の名のもとに、その代表としてこの素晴らしい企画と場を提供された皆さま方、ご多忙中にも関わらずお出でいただき会場に花を添えていただいたみなさま方、厚く、厚く、お礼申し上げます。ありがとうございました》