「私が長官をお守りできなかった」時効直前の告白…警察庁長官を撃ったのは誰なのか?数千ページの捜査資料に刻まれた捜査員の苦闘
1995年3月30日、国松孝次警察庁長官が銃撃され瀕死の重傷を負った。この未曾有の事件のわずか10日前に起きたのが、オウム真理教による地下鉄サリン事件だ。 【画像】捜査資料には凶器の銃や銃弾の写真も…長官銃撃事件発生直後の現場 オウムと警察が全面対決するなか、警視庁の捜査員は長官銃撃犯を追い詰めるべく捜査を続けたが、2010年に未解決のまま時効を迎えた。 なぜ犯人検挙に至らなかったのか。 捜査員は何を見聞きし、誰を追っていたのか? 事件発生から今年で30年。入手した数千ページにも及ぶ膨大な捜査資料と15年以上に及ぶ関係者への取材を通じ、「長官銃撃事件とは何だったのか」を連載で描く。 (『長官銃撃事件』特集ページはこちら)
15年目の告白
黄昏色に包まれたある家の前で筆者はたじろいでいた。 東日本大震災の前の年、2010年3月のことである。飛び込み営業のような夜討ち朝駆けに慣れているとはいえ、初めて訪れる家のインターホンを押すのは勇気が必要だった。 訪ねようとしていたのは1995年3月30日、東京・荒川区でおきた国松孝次警察庁長官銃撃事件の際に、発生現場を管轄する南千住警察署で警備課長をしていた佐藤氏だった。 事件発生から15年が経とうとしている。 この15年どんな気持ちでいたのだろうか。時効が迫った今の心境を伺いたかった。 佐藤氏にとって生涯忘れ得ぬ事件だったに違いない。警察官退職まであと少しという頃に事件が起きたからだ。 皇室の警衛官を務めたことのある佐藤氏は、要人警護を知り尽くしていた警察官である。 国松長官の自宅は、南千住署管内にある「アクロシティ」と呼ばれるマンション群にあった。 警察庁長官の私邸警備の責任者、所轄署の警備課長として警察人生を全うすることができる。そんな“栄えある任務”を全うして、「517(ごいちなな)」のはずだった。 「517」。警察の無線用語で「任務解除」を表す隠語だ。 任務についた機動隊が警備実施を終えると、本部から無線で「部隊にあっては『517』」と撤収の指示がくる。 その意味が転じて、いつしか警察官が退職することの意として使われるようになった。その「517」まであと少しの時に、佐藤氏は長官銃撃事件の発生でどん底に叩き落とされた。 自分の持ち場で世紀の大事件の発生を許したことは、警備警察にとって敗北を意味する。 不名誉な気持ちを背負っての「517」。本来なら「勇退」として盛大に祝われ送り出されるものだが、奉職40年余の職場を裏口からひっそりと去った。 あれから15年余り。時の重みを感じながら筆者は、普段よりゆっくりと丁寧にインターホンを鳴らした。 来意を告げると、意外にも佐藤氏本人が笑顔で玄関の扉を開けてくれた。 現れたのはオールバックの紳士である。往年の皇室警衛官を彷彿とさせる威儀堂々たる人だった。 「佐藤さんにどうしてもお会いしたいと思っておりました」と名刺を差し出すと、不覚にも手が震えていた。 佐藤氏はこちらの緊張を和らげてあげようと「いつか記者さんが来るかもとは思っていましたよ」と笑って、玄関の中に手招きして入るよう促してくれた。 記者を自宅に入れたのは人生で初めてだという。 きっと佐藤氏は、私のことを風采の上がらない記者だと思ったに違いない。緊張からか、最初の質問も「この15年、どういう気持ちでお過ごしになられていたのですか」などと不躾だった。 そんなことは急に訊かれても一言では言えなかっただろう。 佐藤氏は内心、自分の行動に驚いていたのかもしれない。過ぎた禍敗を思い返すまい。そう思って事件の話は家族にさえ口をつぐみ、腹の中に封印してきたそうだ。 しかし時効が迫った今、変な記者の初めての訪問で少し自分の気持ちに整理をつけてもいいんじゃないか、そう思ってくださったようだった。 事件の当日について伺うと、佐藤氏は目を閉じた。 やはり思い出すのは辛かったのだろう。顔を強張らせるように厳しい表情を浮かべながら言葉を選んで話し始めた。 「あの日のことは死んでも忘れません。今でもあの日のことを思い出して夜起きてしまうことがあります」 佐藤氏にとって生涯終わらない事件だった。