料理人・笠原将弘 39歳で亡くなった妻の闘病生活と「3年間3人分作り続けた子どもの弁当」長男の感想に「お前、めんどくせぇな(笑)」
でも、最終的に肺に転移していることがわかった。どんどん痩せてしまい、体調がよくない日が多くなって、入院になった。若いというのは、こんなにも進行が早いんだと感じましたね。今はもう、店の若い子たちにも必ず言いますよ。「検査は絶対行った方がいいぞ」って。 ── お子さんたちには、病気のことは伝えていたんですか。 笠原さん:長女はその頃中学生で、次女と長男は小学生。病気のことは詳しく言ってなかったけど、入院していることは知っていて。「行けるときはお見舞いに行きなよ」って話はしていたんだけど、子どもだからよくわかってなくて、結局あんまり行かなかった。長女にはどうなのって聞かれたこともあったけど、「そのうちよくなるよ」としか、こちらとしては受け答えもできないですよね。
カミさんも、ずっと治るつもりでいて。よくあるような「私がこのあと」みたいな話はしなかったよね。常に普通の、日常的な会話。自分になんかできることがあるかと言ったら、やっぱり料理人だから「なんか食べたいものあるか」って聞いて、作れるもんは作って病院に持っていって。 ── 妻の江理香さんは2年間の闘病の末、39歳のときに亡くなられたとのことですが、その後のお子さんたちの様子はどうでしたか。 笠原さん:亡くなった後はもちろんショックで泣いていたけど、思った以上に子どもたちの方がすぐに日常に戻ったと感じたね。「子どもって、もっと寂しいもんじゃねぇのかな」って思ったんだけどさ。葬式のときも、下の子なんて親戚の子と遊んでるし。そのあとはいつも通り学校にも通って。ずっと落ち込んでいたり、暗くなったりしている感じはなかった。それが救いでもあったんだけど、その意味で言うと、たぶん俺が一番引きずってたね。
抱えていた仕事も一度は全部キャンセルしたけど、仕事って山のようにあるわけで。でもこれが現実。仕事をしている間は気持ちも切り替えられたし、なるべく普通でいようと思ってたね。 ── 仕事を続けながら、子どもたちの世話はどうしていたんですか。 笠原さん:カミさんのお義姉さんが仕事を辞めてずっと家にいてくれたんですよ。お義母さんも元気で、しょっちゅう家にきてくれていたのは大きかった。小さい頃からずっと一緒にいるから、お義姉さんのことは半分、お母さんみたいに思っていると思う。だからこそ俺も仕事ができたんだよね。