伊賀忍者も下緒として重用した? 忍びの里に受け継がれる「組紐」文化
その伊賀焼と並んで、この地の伝統工芸品として挙げられるのが「伊賀組紐」である。 原始からの紐は、束ねた糸をより合わせたもので「撚紐(よりひも)」といい、よった糸を複数交差させて緻密に組み上げたものが「組紐」である。経典や仏具の飾り紐として渡来したのが、わが国での最初といい、奈良時代には国内での製造も始まり、礼服の帯などに使われた。素材には絹糸が使われ、平安時代の宮中において芸術性の高いものになっていったと考えられている。 組紐は伸縮性があり、組み方によってその強弱が変えられる。さらに紐の断面が四角い「角組」、丸い「丸組」、リボン状の平たい「平組」と形を変えて組むことができ、用途によって使い分けられた。鎌倉時代以降、武家の世になると、武具の実用および装飾として多用され、特に太刀の鞘(さや)に付ける「下緒(さげお)」として需要が高かったとみられる。 下緒はもともと太刀を腰に結び付けるためのものであったが、太刀を腰帯にはさむようになると、たすきに使うなど汎用性のある太刀の付属品、あるいは色合いや模様を追求する装飾品となった。江戸時代には華美を競うことを嫌って、幕府や藩が色などに規制を加え、緋色の下緒は将軍か大名しか付けられなかったという。
日本人にとっての紐、「むすび」の文化とともに
伊賀における下緒の扱いを知るうえで興味深いのは、忍者の後裔である伊賀郷士によって江戸時代前期にまとめられた忍術の伝書『萬川集海(まんせんしゅうかい/ばんせんしゅうかい)』に、「下緒七術」として忍者の下緒の活用法が記されていることである。 七術の一つ「吊り刀のこと」を紹介すると、長い下緒の端を口にくわえたまま、太刀を塀に立てかけてこれを足場にして塀に上ったのちに、下緒をたぐって太刀を手にするというもので、忍者が登場する時代劇の演出でもよく使われている。 また「旅まくらのこと」は、旅宿で眠る際には、大刀と小刀の下緒を結び、その結び目を体の下に置いて眠るというもの。盗もうとする者が太刀を引くと瞬時に気付くというわけである。 安全の保障がない状況で厠(かわや)に入る際の利用法「四方詰めのこと」などもあって、なかなか詳細である。忍びの者にとって、下緒はファッションではなく、活用すべき必須の道具であった。 しかし、明治時代を迎えて廃刀令が出されると、下緒としての組紐の需要も失われ、組紐業者にとって大きなダメージとなった。和装の帯締めに組紐が使われるようになるのはこれ以降のことで、実は下緒の転用であったという。男性から女性へ、時代の転換とともに需要の対象も変化したのである。 「伊賀で古くから組紐が作られていたことは確かですが、産業として発展したのは和装での需要が主となった明治時代以降のことです」と教えてくれたのは、三重県組紐協同組合副理事長で、組紐の製造・卸「松島組紐店」の3代目で伝統工芸士の松島俊策さん。 明治35年(1902)、江戸の時代から伝えられてきた組紐の技術を東京で習得した、廣澤(ひろさわ)徳三郎が伊賀に戻って開業。以来、農家の女性の内職として組紐作りが地域に広まり、組むための台が嫁入り道具とされるまでになったという。松島さんの妻のひろ美さんも、義母から技術を教わった職人の一人だが、現在も女性の職人が少なくない。 「伊賀が組紐の生産地となったことには、主だった産業がなかったということがあります。また、原料の絹糸を生産する養蚕が伊賀周辺で盛んでした。そして、忍びの里ともいわれる伊賀の人たちの気質や生活とも合ったのでしょう」と松島さんは語る。 一本の帯締めを手組みするために、60玉もの糸を操り、4日を要することがあるといい、並の心構えでは作業に向き合うのは難しい。体調が優れないときには、すぐに組んだ目に乱れが生じるともいう。 平成28年(2016)に公開され、世界的なヒット作となったアニメーション映画『君の名は。』では、主人公の少女が作る組紐が、物語の重要なキーアイテムになっていて注目を集め、伊賀でも類似の組紐製品への問い合わせが数多く寄せられることになった。 この物語で組紐が取り上げられた背景には、日本の「むすび」の文化があると思われる。例えば、神の領域を示す注連縄(しめなわ)、あるいは、さまざまな意味を持つ多様な飾り結びなど、日本人は「むすび」に実用性を越えた思いや願いを込めてきた。 伊賀に組紐が根付いたことは、そのことと無縁ではないのかもしれない。なぜなら、時空を超えて人と人を結び、文化を築いてきた地こそ、この伊賀であると思えるからである。
兼田由紀夫(フリー編集者)