「お、何食ってるの? 美味そうなものを食ってるじゃないか」70年前、大勝軒で“つけ麺”が誕生した瞬間
つけ麺が初めてメニューとして提供されたのは1955年4月1日。現在も営業を続ける『大勝軒(たいしようけん)』(中野区中野)でのことだった。 【写真多数】つけ麺の生みの親・山岸一雄の姿を一気に見る
「つけ麺」はそもそもまかない食だった
メニュー名は「特製もりそば」で、考案したのは同店の店長を務めていた山岸一雄(1934-2015)。原型は調理中に茹で上がった麺をザルから丼に移す際に残ってしまった麺を器にとっておき、ラーメンスープと醤油を湯飲み茶わんに入れたものにつけた、忙しいときのまかない食だった。山岸は信州出身だったので、日本そばの食べ方を応用した“中華版ざるそば”にしていたのだ。もちろん、商品化の野心などなかった。 それを見た常連客が興味を示したのをきっかけに研究を開始し、冷やし中華の酸味と甘みをヒントに味を調整。麺の食感を活かした日本そばと、中華の風味を併せ持つ独自の食べ物に仕上げていく。つまり、客のリクエストでたまたま生まれたメニューだったのだ。ラーメン一杯35円に対し、5円高い40円で提供された。 山岸は自著である『東池袋大勝軒 心の味』で、当時をこう振り返る。 〈ある日空いた時間を狙って、いつものように少し隠れて陰のほうでまかないを食べていた。すると、常連客の一人が厨房をヒョイとのぞき込んだ。そして、言った。 「お、何食ってるの? 美味そうなものを食ってるじゃないか。今度、それを俺にも食わせてくれよ」 しかも、そう言ったのは一人だけではなかった。〉
『大勝軒』は町中華だったがつけ麺の人気により……
「特製もりそば」はすぐに評判となり、1961年、独立した山岸が東池袋で『大勝軒』を開業すると、ラーメンと人気を二分するメニューに急成長。当初はカレーライスやカツ丼なども提供する町中華だった同店だが、客の大半がラーメンかつけ麺を注文するため、メニューをこの2種に絞り込まざるを得なかったほどの行列を生む。 山岸は後年、“ラーメンの神様”と称されるようになった業界のレジェンドだが、中華界への影響という点から見れば、つけ麺の考案者としての功績も大きく評価されるべきだろう。 麺をスープにつけて食べる画期的な中華の新メニューを、より多くの人に知らしめたのは、つけ麺というわかりやすい名称を引っ提げて1974年に登場した『つけ麺大王』である。矢継ぎ早のチェーン展開をしたこともあって、つけ麺は一躍ブームとなっていく。 ただし、『つけ麺大王』は関東ローカルの店舗展開をしていたため、一気に全国的な人気に結び付いたわけではなく、同店の躍進に陰りが見え始めると、短期間で店が減り始め、つけ麺ブームは去ってしまったかに思われた。