「沙知代の残像が今も消えない…」野村克也が受け入れられなかった、妻・沙知代の悲痛すぎる去り方
「このがらんどうの人生を、俺はいつまで生きるんだろう。俺はおまえのおかげで、悪くない人生だったよ...おまえは幸せだったか....?」 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 生きている間に伝えたかった「ありがとう」をこの本で。名将・故野村克也さんが綴った、亡き妻・沙知代さんへの「愛惜の手記」。2人のかけがいのない思い出から「夫婦円満」の秘訣を紐解いていこう。 *本記事は『ありがとうを言えなくて』(野村克也著)を抜粋、編集したものです。 『ありがとうを言えなくて』連載第6回 『「ここには体温がある」野村克也が妻・沙知代を亡くした後になってようやく気づいた自分の「居場所」』より続く
沙知代との時間は「止まった」まま
失ったとき、初めてその存在の大切さがわかる――。 そんな話を何十回も、何百回も読んだり聞いたりしてきた。 だが、その事態に直面し、初めてその意味を理解した。人間は本質的に体験でしか学べない生き物なのではないか。 ぽっくり逝くのは、ある意味、幸福かもしれない。しかし、残された方は、その死をなかなか受け入れることができない。 私の中でも、沙知代との時間は「2017年12月8日、16時09分」で止まったままだ。時間が流れれば思い出に変わっていくのだろうが、静止したままなので、ある日、帰ったら食堂にいるような気がしてならない。 タバコをぷかりとやりながら、ワイドショーを観ていた沙知代の残像が今もなかなか消えない。いないのに、潜在意識の中では、いると思っている。 だから、心の穴がいつまでたっても塞がらないのだ。たとえば、がんで亡くなったのなら、こうはならなかっただろう。余命いくばくもないと宣告されてからの日々を、これまで言いたくても言えなかったことなどを語り合いつつ、二人で演出することもできたかもしれない。
やり場のない「たった5分」の出来事
そうなったなら、さすがの私も、晩飯の選択権は、沙知代に譲ったに違いない。それでも「何でもいいわよ」と言ったなら、毎日、小川軒に連れて行ったことだろう。 次第に心の準備ができ、涙を流すこともあったかもしれない。そして、その涙の記憶が、死後、心の穴を少しずつ埋めていってくれたに違いない。 そこへいくと、今回のケースは、たった5分の出来事である。 2時間楽しむつもりだったミステリーの主人公が、番組開始からわずか5分で亡くなり、完結してしまったようなものである。 やり場のない思いが、あたりを浮遊している。未だに悪い冗談のようにしか思えないのだ。 妻の急死を私もどこかで消化しなければと思っているのだろう、ふと、こんなことを考えた。