「ダメなら心残りなく引退できる」再起をかけた全日本歌謡選手権 失神バンド解散後のソロ挫折 まさかの紅白落選 真木ひでとさんインタビュー
ソロ、そして演歌への転向
ーーソロ活動の反響は? ひでと:1971年8月5日に橋本淳さん、筒美京平さんに作ってもらった『仮面』という曲でソロデビューしました。ところがこれが全然売れない。セカンドシングルの『他に何がある』は中部地方を中心にそこそこという感じ。今聴いてもすごくいい曲なんだけど、ちょっと早すぎたのかもしれません。 堀威夫さんからは露出が増えるからと、グリコのCMソング『黄色い麦わら帽子』という曲も勧められていました。だけど可愛らしい感じの曲で、これだとオックスの延長になると断ってしまった。それを少しアレンジして松崎しげる君が歌ってヒットさせるんです。親友だったアイ高野(ザ・カーナビーツ)も、断った曲が西城秀樹君のデビュー曲『恋する季節』になってたりします。それを僕たちが歌ったからと言ってヒットしたかわからないけど、世の中わからないもんですよね。 ーー演歌への転向はどういう経緯だったのでしょうか? ひでと:『他に何がある』まではがんばるぞという気持ちがあったんだけど、サードシングルの『夜空の笛』が出たくらいから煮詰まっていきました。曲の方向性も1枚ごとにバラバラじゃないですか。オックス時代のスタッフはみんな辞めていたし、ホリプロも僕をどう売っていいかわからなくなってたんだと思います。「ソロで売れなければ芸能界に入った意味がない。これは俺の描いていた未来予想図とは違うぞ」と奈落の底に落ちたような心境でした。ヒットはなく、仕事もさっぱり来ないのにお給料だけはいただける。いたたまれなくなって、1975年2月に堀さんに辞めさせてほしいとお願いに行きました。堀さんはうちが母子家庭なことも知っていたし、心配して「またチャンスが来る。いい曲を探すから」と引き留めてくれたんですが、このままぬるま湯に浸かっていることは僕のためにもならないと退所させていただきました。 引退も考えましたが、踏ん切りがつかなくて1カ月、2カ月と時間だけが過ぎてゆきました。そんな中、以前ホリプロの歌手から「全日本歌謡選手権に出ようと思う」と相談されたことを思い出したんです。その時は「プロが出場して落ちたら恥をかくだけ」と反対したんですが、あれに勝ち抜けば再起のチャンスをつかめるかもしれないと思いたちました。