ケガに泣いた南海のエース加藤伸一が30歳で戦力外も、広島でカムバック賞を受賞できた理由【逆転野球人生】
広島で崖っぷちから復活
すでに30歳になり妻とふたりの子どもがいた。いつの時代も30歳というのは、夢や青春に区切りを付けるひとつの目安になる年齢だ。加藤も野球に見切りをつけ、アパレル業界への転職を真剣に考えたという。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない──。 南海時代の元同僚、広島の井上祐二から誘いの電話が入るのだ。三村敏之監督が加藤に興味を持っているという。さっそく広島の入団テストを受けると、「ボールはいいね。変化球でストライクが取れるし、シュートもある。おもしろいと思うよ」と三村監督の評価も上々で、その場で採用が決まった。自宅マンションはまだローン返済の途中だったため簡単に手放すわけにもいかず、加藤は家族を福岡市内に残して、広島の寮での単身赴任生活を選択。「ダイエーを見返してやる」とカープ伝統の猛練習で若手に交じり汗を流し、文字通りイチからの再出発だ。前述の加藤の東スポ連載「酷道89号」によると、投手が打席に立つセ・リーグの野球に適応しようと、オフにはバッティング・センターに通い、金属バットを握りしめバント練習を繰り返したという。 まさに崖っぷちの背番号12だったが、当時の広島の正捕手は南海時代の後輩、西山秀二が務める幸運もあった。96年5月14日には、前年日本一チームのヤクルトから実に2480日ぶりという完封勝利を記録している。三村監督は「せっかくのチャンスだから、ここまで来たら最後まで……」と続投指令で尻を叩き、川端順投手コーチは「絶対にカムバック賞ですよ」とマスコミにアピールし続けてくれた。実はこの試合の9回、古田敦也の打球が左手首に直撃して骨折していたが、加藤は以降もそれを隠してローテーションを守り続けた。テスト入団の自分が離脱したらそこで終わりだと知っていたのだ。96年の加藤は152.1回を投げ、7年ぶりの規定投球回に到達。25試合、9勝7敗、防御率3.78という成績でカムバック賞にも選ばれた。契約更改では、1700万円アップの年俸3200万円でサイン。すぐさま球場内の公衆電話から妻に喜びの電話をかけた。もちろん単身赴任の寂しさはあったが、「24時間、野球のことだけを考えていられる好条件ですから」と前向きにとらえて寮生活を続けた。
98年も8勝を挙げる。99年からはオリックスへ移籍。01年には12年ぶりの二ケタ勝利と13年ぶりの球宴出場でも話題に。さらには2002年にはFA権を行使して大阪近鉄へ。世紀をまたぎ、加藤はしぶとくプロの世界で生き続けた。 若手時代は、度重なる怪我で同年代の出世レースに遅れを取ったが、30代後半を迎える頃にはすでにライバルの渡辺も津野も現役を引退していた。19歳トリオで、最後までマウンドに立ち続けたのは、加藤伸一だったのである。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール