ケガに泣いた南海のエース加藤伸一が30歳で戦力外も、広島でカムバック賞を受賞できた理由【逆転野球人生】
ダイエーを自由契約に
元号も昭和から平成へと代わったバブル好景気の真っ只中。世界的ファッションデザイナー三宅一生がデザインした新ユニフォームのお披露目会で、佐々木誠とともに新チームの投打の顔としてモデル役に抜擢されたのが加藤だった。そして日本ハムに連敗して迎えた開幕3戦目に先発すると、ダイエー球団初の勝利投手にもなる。九州で迎えたプロ6年目、キャリアハイの12勝を挙げて、ついに鷹のエースの座をつかみ取った。しかし、これからというときにまたもや故障に泣かされる。 右肩関節周囲炎で90年は登板なし。翌91年の4月に550日ぶりの涙の勝利も、92年のキャンプで右肩痛が再発して満足にボールを投げられなくなる。そして、「これでダメならあきらめがつく」と92年7月2日に最後の手段として、右肩関節唇部分除去手術を行うのだ。そこから長いリハビリ生活が始まった。 「もう電話も取りませんでした。後援会や実家から「頑張れ」とよくいわれましたけど、それがイヤでした。元気づけてくれて嬉しいという気持ちもありますけど、それより、ほうっておいてほしい、という気持ちの方が強かったですね。期待に応えられない苦しさが募りますから……」(週刊ベースボール94年4月11日号) ファームでの調整登板ではこれまでの力で押す投球ではなく、スライダーやパームボールを習得してモデルチェンジを試行錯誤。ようやく光が見え始めたのは94年春のことだ。5月18日の近鉄戦で998日ぶりの白星を挙げ、7月5日のロッテ戦では1721日ぶりの完投勝利。17試合で3勝5敗、防御率4.82と復活への第一歩かに思えた。しかし、95年のダイエーは王貞治監督を招聘。秋山幸二、工藤公康ら西武黄金時代を築いた選手たちを中心に据えたチームへと猛スピードで生まれ変わろうとしていた。変わりゆく組織の中で、キャンプからの出遅れで40人枠から漏れた加藤に登板チャンスは回ってこなかった。そうしてプロ12年目のオフに戦力外通告を受けるのだ。 「ダイエーを自由契約になった時には、これで野球も終わりだなとあきらめました。「よく泣く」って、言われるけど、あの時は本当に涙がでましたね。悔しい? 最後の1年は、肩の状態は何ともなかったんですから」(週刊ベースボール96年10月28日号)