ケガに泣いた南海のエース加藤伸一が30歳で戦力外も、広島でカムバック賞を受賞できた理由【逆転野球人生】
次代の南海を背負うスター候補生
先輩投手の井上祐二が体調を崩し、若手の藤本修二もキャンプ中に猫にエサをやろうとして右手人さし指を噛まれる「ニャンコ藤本」事件で出遅れ、ルーキーの加藤に出番が回ってきた。当時は、期待の若手は数年かけて大事に育成するなんて概念はなく、使えると判断したらすぐさま実戦投入してとことん投げさせた。加藤も1年目から33試合で5勝4敗4セーブ、防御率2.76と高卒ルーキーながらリリーフに谷間の先発と投げまくる。80年代の南海の財政事情は厳しく、初めての契約更改で「これじゃ、あんまりだ」と思わず保留するほど低い年俸を提示されたが、背番号17は次代の南海を背負うスター候補生だった。往年の石原軍団にいそうな昭和のハンサムボーイは、チーム屈指の女性人気を誇り、キャンプではブルペンのテントのすき間からカメラを構える加藤ギャルが多数出現。北海道からわざわざ大阪・堺市の「秀鷹寮」までサインをもらいにくる熱心な女性ファンもいた。人気絶頂時の週ベには、「勝ちたいのは、いい気分でデートしたいから」なんて若かりし日のプレイボーイ加藤のコメントも残されている。
当時のパ・リーグには1965年生まれの渡辺久信(西武)、津野浩(日本ハム)、そして加藤と各球団で十代の投手が活躍。彼ら同期の3人をメディアは新世代の「19歳トリオ」と呼んだ。3人とも小泉今日子のファンで、加藤と同郷の鳥取出身の評論家・小林繁から、「3人の中で一番いい成績を残したやつはキョンキョンと会わせてやる」と言われて、必死に競い合う3人であった。85年のオールスターには、3人揃って初出場。加藤も前半戦だけで8勝を挙げていた。しかし、解説者として球場を訪れていた金田正一のアドバイスを取り入れ、慣れないフォームで投げたら右ヒジに違和感を覚える。後半戦に急失速してしまい9勝11敗1セーブ、防御率4.09。それでも189.1投球回とフル回転して、オフには晴れて1000万円プレーヤーとなり、「オヤジより多くなりましたから……。でも家に帰って、どういう態度をとればいいんでしょう」と初々しいコメントを残すハタチの加藤。だが、その体には登板過多の疲労が蓄積していた。 杉浦忠新監督は「球威、ボールのキレが、並みのピッチャーとは1ランク違う」とエースの働きを期待するも、3年目の86年シーズン最初の登板となった4月8日の阪急戦で右ヒジの痛みを訴え、1イニングで降板(引退後に加藤自身が内側側副靱帯損傷だったことを明かしている)。右肩の違和感にも悩まされ、以降、故障とは長い付き合いになっていく。19歳トリオで切磋琢磨していた渡辺は屈強な身体とタフさで西武のエースとなり、日本ハムの津野も開幕投手を務め二ケタ勝利を記録した。同期たちに先を行かれた加藤は3年目に3勝、翌年も4勝と低迷するも、88年に27試合で8勝10敗3セーブと復調。防御率4.54ながらも3年ぶりの規定投球回に到達した。だが、個人成績どころではない衝撃的な事件が起きる。88年9月13日、南海ホークスが福岡のダイエーへの身売りを発表するのだ。