「ゴジラ-1.0」にも登場…昨年7月についに一般公開された、現存する「国内最大級の戦争遺跡」の全容
戦後79年、日本は驚異的な復興を見せた。特に都市部では「再開発」と称してこれまで馴染みのあった建物も次々と取り壊され、新しいビルや商業施設が建設されて、戦争中どころか「昭和」を偲ぶことさえむずかしくなりつつある。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! だが、そんななかでも、幸運にして開発の手が入らず、ほぼ当時のままの姿をとどめている戦争遺跡がいくつかある。 今回はそんな戦争遺跡のなかから、昨年(2023)7月にようやく一般公開された茨城県の「鹿島海軍航空隊(鹿島空)跡」をご紹介したい。
鹿島海軍航空隊跡とは
「鹿島海軍航空隊」の名前は知らなくても、映画ファンの人なら写真を見ればピンとくるかもしれない。大ヒット映画「ゴジラ-1.0」のクライマックスにつながる重要なシーンで、主人公・敷島浩一(神木隆之介)が搭乗する旧日本海軍の戦闘機「震電」が隠し置かれていた格納庫のある場所なのだ。いまも航空隊の敷地の主要部分はほとんど手つかずの状態で残っていて、現存する「国内最大級の戦争遺跡」ともいわれる。 鹿島海軍航空隊(鹿島空)は、昭和11(1936)年、霞ケ浦に面した茨城県稲敷郡安中村大山(現・美浦市)に「安中水上機着陸場」が開設されたことにはじまる。昭和13(1938)年には「安中水上基地」が完成し、霞ケ浦海軍航空隊安中水上隊が開隊。さらに鹿島海軍航空隊として独立した航空隊になった。 鹿島空には陸上機向けの滑走路はなく、霞ケ浦の湖畔に水上機の滑走台(広い滑り台状のスロープ)と飛行機を射出するカタパルトを備えた、水上機専門の航空隊である。 予科練を卒業した練習生や、士官の飛行学生、下士官兵の操縦練習生などのうち、水上機専修に選ばれた若者たちが、ここでフロートのついた水上機の操縦訓練を受けた。巣立てば戦艦や巡洋艦、水上機母艦、潜水艦など水上機を搭載する艦艇に乗り組み、索敵や偵察、人員輸送、弾着観測、果ては爆撃などに活躍した。飛行場がない占領地の水上機基地で、防空任務や対潜哨戒にあたった者もいる。日本海軍が開発した二式水上戦闘機(零戦にフロートをつけ、改修したもの)や水上戦闘機「強風」の搭乗員となり、「戦闘機乗り」として敵機と戦った者もいた。 大戦後期、水上機の活躍の場が減り、陸上機の搭乗員に不足を生じると、水上機の搭乗員のなかには、陸上機への転換教育を受けた者も少なくなかった。そのうちの1人、水上機で900時間の飛行経験のあった横山岳夫・元大尉が私に語ったところによると、 「ふだん広大な海の上に着水するのに慣れていたから、陸の飛行場ってあんなに狭いのか、と。最初は怖く感じましたね」 という。 いっぽう、水上機搭乗員のまま終戦を迎えた人も少なくない。なかでも特筆すべきは、大西洋と太平洋の交通を遮断する、「パナマ運河の閘門(こうもん)爆破」という壮大な作戦のために建造された、世界一の大きさを誇る伊四百型潜水艦に3機ずつ搭載された特殊攻撃機「晴嵐」の搭乗員だろう。鹿島空で訓練を受け、教官も務めた伊四百一潜飛行長・浅村敦・元大尉は、私のインタビューに次のように語っている。 「パナマ運河攻撃は本来、通常攻撃(爆撃)の予定でしたが、これだけの巨大な潜水艦を用意して、世界一の性能を誇る水上攻撃機を開発して、全海軍の輿望を担って、250人の乗組員の先頭に立って飛び立つわけですから、爆弾を落として当たった、当たらなかったという次元の話ではない。爆弾を確実に命中させるために、はじめから閘門に体当たりするつもりでした」 結局、戦局の悪化でパナマ運河攻撃は中止になり、伊四百潜、伊四百一潜は太平洋の米艦隊の拠点・ウルシ―攻撃に向かうも、その途中で終戦を迎えた。