90年代後半の日本のポップカルチャーと「最終形のその先を担う世代」【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
■日本のポップカルチャーのある種の「最終形」 たしかに、いま思い返せば、当時のファッションや化粧、音楽の曲調などは「日本独自」のユニークなもので、世界のポップカルチャーの潮流・文脈からはかけ離れたものであったのかもしれない。そういう意味では、「ガラパゴス」という表現に誤りはないようにも思う。 しかし、である。そういう90年代後半の空気感の延長で育まれた日本のポップカルチャーのある種の最終形・完成形のひとつが、2016年のリオオリンピック閉会式における、東京オリンピックへの引き継ぎ式に凝縮されていると、私は個人的に思っている。 これはあくまで私感であるが、これに同意する人は少なくないのではないかと思う。あれこそ当時の日本が育んだ独自のポップカルチャーの真髄のように思えたし、なによりワクワク感がものすごかった。そしてこの感覚は、'21年の東京オリンピック閉会式でのパリオリンピックへの引き継ぎ式、そしてつい数週間前の、パリオリンピックが閉会式での'28年ロサンゼルスオリンピックへの引き継ぎ式を観た後でも変わることはない。 大友克洋のマンガ『AKIRA』の影響などもあって、「2020」という単語そのものも近未来感を帯びていたし(それがまさか、『AKIRA』よろしく、コロナ禍という未曾有の事態に遭遇するとは誰も思わなかったが)、東京オリンピックへの引継ぎ式のムービーには、日本のカルチャーの近未来が描かれているように思えた(そしてこれは余談であり、またこれについても同意する人は少なくないと思うが、それを引き継いだはずの、東京オリンピック開会式の絶望感はハンパなかった)。
■カルチャーの担い手としての「旬」 スポーツ選手やミュージシャンに比べて、サイエンティスト、あるいは「アカデミア(大学業界)」の旬は年齢的に遅い。プロ野球選手であれば、ほぼ現役引退しているであろう40代も半ばにさしかかろうとする私ですら、よもすればまだ「若手」と揶揄される業界である。 逆の言い方をすれば、サイエンティストは息の長い職業であるともいえる。ノーベル賞受賞者の大半は後期高齢者であるし、80歳を超えてバリバリやっている研究者もいる。そしてなにより、正しく科学をしていれば、それは「ガラパゴス」にはならないし、世界で活躍できる舞台につながっていることは、私たちG2P-Japanが証明できたところでもあると思っている。 90年代後半のカルチャーに育まれた私である。私をはじめ、同年代のG2P-Japanの面々はもちろんまだまだ枯れてなどいないし、「ガラパゴス」にはなっていないし、これからの日本の「アカデミア」を牽引していく世代である。 アジアン・カンフー・ジェネレーションのある歌の歌詞を借りれば、私たちの世代こそが、「アカデミア」の文脈における「最終形のその先を担う世代」であると常々思っている。 文/佐藤 佳 写真/PIXTA