無名のチームを「ニューイヤー駅伝」出場に次々導いた〝凄腕〟監督の激レア人生 選手実績ゼロ、派遣社員、給与未払い、リストラ…
2年ほどで退職。一般企業で働いたが、「もっと陸上競技を勉強しよう」と、東京の大学院に入った。夜間部のため、授業は基本的に夜。昼間は派遣社員として働いた。 大学院修了後は、派遣社員として働いていた配電盤の会社で正社員に。営業職だったが、評価されて設計部へ。「電気なんて全然わからないのに、ちょっと勉強していたら設計やることになっちゃって」 その矢先、またトラブルが起きる。 「会社で不祥事があったんです。億単位の着服があったらしく、それが明るみになって、仕事の多くがなくなりました」。高嶋さんは当時、東京で勤務していたが、本社がある山形へ行くことに。「それは話が違うと思って辞めました」 ▽恩師から驚きの提案「市役所職員が駅伝?」 大学の恩師・上田さんに現状を報告したところ、驚きの提案をされた。 「市役所の陸上競技部で指導しないか?」 場所は山形県南陽市。市長が強化を目指し、指導できる人を探しているという。山形の勤務を断ったばかりだったため、複雑な気持ちになった。
「正直、あまり行きたくなかったし、30歳も過ぎていたので『もういいかな』という気持ちもありました。でも、上田監督が何度も説得してくれて覚悟を決めました」 2012年、南陽市役所チームのコーチになった。ただ、選手のほとんどが公務員で、8時半~17時15分は勤務しなければならない。ニューイヤー駅伝を目指したものの、予選15位と惨敗。予選突破ラインからも6分近く遅かった。 「ただでさえ練習時間が少ない中で、飲み会を理由に練習を休む選手もいましたしね。いろいろ変えようとしたんですが、付け焼き刃ではさすがに無理でした」 翌13年、監督に就任。まず取り組んだのが選手の意識改革だった。 「市民や周囲からすごく期待されているのを感じていたんです。『なぜ自分がこの場所にいて、この仕事をして、走っているのか』を正しく理解させようと心がけました」 その思いに選手たちも応えた。それまで週2日ほどだった朝練は、ほぼ毎日に。水曜午後には年休を取り、練習時間を確保した。冬は雪で走れないため、車で1時間ほど離れた場所で合宿。強化練習を詰め込み、終了後に疲れを取る仕組みでメリハリをつけた。