伊藤忠はなぜ企業理念を「三方よし」に変えたのか。全社員が知らない理念は意味がない
「自分以外はすべて客」
三方よしは自分、客、世間と3つの立場についての言葉のように思われるが、中村治兵衛の遺言状にある言葉に従えば、そこにあるのは自分と客(世間)というふたつの立場だ。 わたしは「自分以外はすべて客」と考える方が商人らしい言葉だと思う。 ここにあるように三方よしは人によって解釈の余地がある便利な言葉だ。それぞれの立場の人間が自ら解釈してもいい。そうすれば、より実践的な処世訓になる。
「商人は自分起点で商売を考えない」
わたし自身は三方よしを次のように解釈している。 三方よしとは、売り手よし、買い手よし、世間よしとされている。つまり、3人の人間がいることが前提の言葉だ。 だが、商人とは果たして、売り手、買い手と立場が固定される存在なのだろうか。商社の人間は品物を仕入れて売る。つまり、売り手でもあるけれど、買い手でもある。 商社の人間は取引においては売り手、買い手の両方の立場に立つ。そして、商人もそうだ。売り手でもあるけれど、仕入れるのだから買い手でもある。 さらに加えて、商人はその取引が正しいか正しくないかという第三者(世間)の目を持っていなくてはならない。 つまり三方よしという言葉は3人の人間がいる前提の言葉として解釈されているが、現実の商人はひとりで売り手、買い手、世間という3つの立場を経験している。 するともうひとつの意味が生まれてくる。 それは「自分だけを起点にして商売を考えない。自分だけが儲かる仕事にしないこと」。 そしてこれは岡藤がつねづね言っていることだ。 三方よしという言葉を3者がいる前提だけで解釈するのは単純だ。自分だけを起点にしない商売をすることが結果的に三方を満足させるのである。 商人であれば、三方よしにふたつの解釈の仕方があると思った方がいい。
「客先の在庫も自分の責任」
三方よしに関係のあるエピソードがある。岡藤は新入社員時代、次のような仕事をした。 彼が紳士服地をラシャ屋に販売していた時のことだ。 あるラシャ屋からこう言われた。 「お宅から仕入れた在庫が余っていて困ってる。だからといって付き合いのないルートに流して安売りされたらもっと困るしなあ。どうすればいいかな、岡藤さん」 品物はあくまでラシャ屋に売ったものだ。売り渡した商社の人間がラシャ屋の在庫の責任まで持つ義務はない。 しかし、岡藤は相手が困っているのを見て必死に打開策を考えた。売り手の立場だけでなく、生地の買い手の立場に立ったのである。 「分かりました。在庫になった生地は伊藤忠の国内支店の社員に売ります」 岡藤は買い手を伊藤忠の国内支店の人間だけにしておけば、格安で売ってもブランドイメージが傷つくことはないと考えた。 そこでラシャ屋の人とトラックに乗り、釧路支店から鹿児島支店まで日本全国をまわって販売を続けた。そうして在庫の紳士服地を売り切ったのである。 そこまでやる大手商社の人間はいない。ラシャ屋は喜んだ。 「商売が終わった後なのに、あんた、うちのためにようやってくれた。ありがとうな」 売り手の伊藤忠は買い手から感謝された。買い手のラシャ屋は在庫をさばくことができて喜んだ。そして、ブランド物の紳士服地を安く買うことができた伊藤忠の国内支店の人間も喜んだ。 これが三方よしのビジネスだ。そして、自分だけを起点としない発想から生まれた取引だ。 結局、そのラシャ屋はその後もずっと岡藤から生地を買ってくれたという。三方よしのいいところは取引が長期継続に結びつくことだ。