100人以上の戦災孤児を育てた「愛児の家」 多くの危機も乗り越えたママの愛情
米国から日本への援助物資では、1946年11月に始まった「ララ物資(Licensed Agencies for Relief in Asia)」が知られるが、愛児の家にはその最初の物資が送られた。ララ物資中央委員会の代表であるバット博士が来日の際、愛児の家を訪問していたからだ。 支援の輪は徐々に広がり、学校に通っていなかった中学生くらいの子にはGHQが民事検閲局での仕事を紹介し、東京駅前の東京中央郵便局に10人程度の子が通うことになった。支援活動はその後、GHQから米海軍、そしてキリスト教団体などへと引き継がれた。 支援活動は2021年の現在でも継続していると裕さんは感嘆の声を上げる。 「たとえば、いまでもクリスマスは横田基地のアメリカンスクールの小学校、中学校、高校の3校から子どもたち一人ずつにプレゼントが送られてきます。また、あの当時と同様に七面鳥も3羽送られてきます。これだけ長い支援には驚くと同時に、感謝しかありません」
ママの家庭的な愛情に感謝
愛児の家は1948年1月の児童福祉法の施行以降、養護施設(1998年以降、児童養護施設)となり、戦災孤児以外の子どもも収容する体制となった。1947年に107人いた子は施設の基準で、85人、63人と減員されることになったが、貞代さんは一人ひとり丁寧に送り出してきた。洋菓子店やペンキ屋に勤めた子もいれば、発足まもない自衛隊に入った子もいた。どの子も愛児の家を“卒業”していくときには、ママへの思いを強く語っている。 <六年の間、僕を自分の子供のように育ててくださった。御恩は一生わすれることはできません。ママのやさしい愛情の中で育った。僕は世の中に出て立派に働く事を誓ひます>(男子) なにより子どもたちが感じていたのは、ママからの家庭的な愛情だった。
主任保母(保育士)として70年以上子どもたちの面倒を見てきた裕さんは、母はただ子どもを放っておけなかったんでしょうと言う。 「みんながおなかをすかせていた時期でした。生きるか死ぬかでね。だから、とにかくご飯を食べさせたかったんですね。当時、まさかこんなに長く(活動が)続くとは思っていませんでしたけど、多くの子を育てていけたのは本当によかったと思いますね」
--- 森健(もり・けん) ジャーナリスト。1968年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、総合誌の専属記者などを経て独立。『「つなみ」の子どもたち』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。