1970年代「スーパーカーブーム」はなぜ盛り上がり、そして衰退したのか? 当時の子どもはもう50代? “夢のクルマ”の興奮をもう一度
スーパーカーの定義
一般的に「スーパーカー」とは、 ・高価格で ・性能が傑出し ・デザインに独創性があり ・エンジンをミッドシップに搭載している 2シーターのスポーツカーを指すことが多かった。“多い”と濁した表現にしたのは、それらが厳密な基準ではないからである。スーパーカーは定義なき称号なのだ。ただし、ブーム当時、 「最高速度〇〇〇km/h以上でないとスーパーカーではない」 といった不正確な情報も流れていた。当時、スーパーカーとされた車種は、イタリア、ドイツ、イギリスなど欧州のメーカーのものであることがほとんどだったが、日本の子どもたちは、スタイリッシュな外国のスポーツカーをなんとなくざっくりとスーパーカーとして扱う傾向もあった。ブームを代表するスーパーカーには、以下のようなものがあった。 ・ランボルギーニ・カウンタック:シザーズドア、リトラクタブル・ヘッドライトなどが人気を呼んだスーパーカーブームの顔。 ・フェラーリ・512BB:カウンタックと並ぶ高い人気を誇った。「BB」とは「ベルリネッタ・ボクサー」の略である。 ・ポルシェ・911:丸型ヘッドライトが特徴のフラッグシップ的車種。なかでも930は、初のターボモデルとして特に有名だ。 そのほか、ランボルギーニ・イオタは世界に1台しか存在しない“幻のスーパーカー”としてあがめられた。国産車初のリトラクタブルヘッドライトを採用した“日本のスーパーカー”トヨタ・2000GTは、すでに生産が終了していたことが価値をアップさせた。 そして、『サーキットの狼』の影響でロータス・ヨーロッパは日本では別格扱いだった。さらに、ランボルギーニ・ミウラ、マセラティ・ボーラ、デ・トマソ・パンテーラ、ランチア・ストラトス、ロータス・エスプリ、ディーノ・246などがブームをけん引していた。
子どもカルチャーでの展開
ブームの主役が子どもたちだった以上、各おもちゃメーカーがプラモデル、ミニカー、ラジコンなどを多数発売したのは当然の流れである。さらに、スーパーカーの写真が印刷されたカード、ブロマイド、ポスター、カレンダーなども大量に流通し、子どもたちはそれを競って集めた。スーパーカーはアイドルだったのである。 文具も多数あったが、なかでも大ヒット商品となったのが「スーパーカー消しゴム」だ。文字通りスーパーカーを模した形状の消しゴムで、さまざまな種類やカラーがそろっていた。コレクションや交換の楽しさがあったとともに、これをノック式ボールペンでパチンと飛ばす遊びが全国の小学校で大はやりした。 スーパーカー消しゴムがヒットした大きな要因は、体裁上は消しゴムであるため、 「堂々と学校に持っていくことができた」 点にある。ただし、消しゴムとしての機能は著しく低く、鉛筆で書いた文字をきれいに消すことは難しいという大きな矛盾を抱えていた。つまり、正体はおもちゃだった。 ほかにもスーパーカー人気にあやかった商品はいろいろあった。各自転車メーカーは、ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ・512BBのように、通常は隠れているライトがスイッチを入れると飛び出すスタイルのスポーツ自転車を次々と発売した。それを「スーパーカーライト」と称するメーカーもあった。コカ・コーラ社は販売促進のために、瓶入りドリンクの王冠(フタ)の裏側に商品ごとに異なるスーパーカーのイラストを施した。 そして、スーパーカーを取り上げた児童書、児童向け雑誌などは多数出版された。子どもたちはそれらを熟読し、スーパーカーについての知識を蓄えていった。 スーパーカーがアイドルである以上、ファンは「生の姿が見たい」と考えるのが自然だ。外国車ディーラーのショーウインドーの前には、カメラを手にした子どもたちが集まった。リッチそうな家の駐車場を「スーパーカーは止まっていないか」とチェックする子どもたちもいた。 そんなニーズを最大限に満たすべく、人気のスーパーカーをズラリと並べた有料の展示会が開かれるようになった。これらのイベントは「スーパーカーショー」などと呼ばれ、東京の晴海国際展示場で行われた大規模なものから、地方都市のイベント会場を舞台とした中小規模のものもあった。「スーパーカーショー」が開催される街の電柱には、 「夢のスーパーカー来る!」 「フェラーリ来場!」 といったコピーを掲げたポスターが貼られた。ただし、なかには人気車種を十分に集められず、それほど珍しくない外国車や、文脈が異なるクラシックカーなど“これじゃない”車種で水増しした例もあったようである。