函館本線・森駅開業120周年! 名物駅弁「いかめし」はどんな人たちが作っているのか?
●前身の「阿部旅館」は、明治天皇もお泊まりになった由緒ある宿
―「いかめし阿部商店」というお店の名前ですが、なぜトップが今井さんなのでしょうか? 今井:先代社長である父の伯父が、初代社長の阿部恵三男(あべ・えさお)といいます。その奥さんが今井家出身でした。初代には跡取りとなる子供がいなかったため、80年代、親戚のなかから父が選ばれて2代目となりました。今井家には函館で病院の食事などを作る家業があったのですが、それは父の弟が継ぎました。当時の「いかめし阿部本舗」を継ぐ際は、森のお店に何ヵ月も住み込んで「いかめし」の味を受け継いだと聞いています。 ―阿部家は、どんなお仕事をされていたんですか? 今井:もともとは「阿部旅館」で、明治天皇もお泊まりになったという由緒ある宿でした。この旅館の弁当部が120年前、明治36(1903)年の函館本線・森駅開業と共に、鉄道構内営業に参入したのが森駅の「駅弁」のはじまりです。その頃はおにぎりや幕の内弁当など一般的な弁当を作っていたと聞いています。その後、昭和16(1941)年になって、鉄道で移動する軍人さんのお腹を満たすべく、初代の妻・静子が「いかめし」を開発しました。
●森の「いかめし」が、百貨店の催事に活路を求めた背景は?
―軍事輸送が無くなった戦後は、森駅を取り巻く環境も変わっていったようですね? 今井:昭和30年代、森駅に停まっていた急行列車が通過となり、いかめしの売り上げも激減しました。そこで、当時始まっていた、北海道物産展や駅弁大会といった百貨店の催事における実演販売に活路を求めました。「作ったものを(駅で)売れないならその場で作って売ればいい」という逆転の発想ですね。最初の実演は(諸説ありますが)高島屋で、いきなり1位を獲得して、初代夫婦は後々まで自慢していたと父は話しています。 ―函館への進出などは考えなかったのでしょうか? 今井:当時の森は、明治天皇もお泊まりになった交通の要衝という自負が大きく、函館で売ることは考えなかったようです。加えて、1駅1業者の「構内営業権」も強い時代でした。父の代に大沼公園駅前のイベントで「いかめし」を売ろうとしたところ、大沼公園駅には、別の構内営業者さんがいたため、国鉄の駅長さんの許可が下りなかったそうです。でも、その厳しさがあったから、「森駅のいかめし」としての価値が高まったと父はいいます。