生物学者・福岡伸一先生に聞く。ヒトはなぜ、歩くのか?
CHAPTER3|生物の老いと、歩き
さて、せっかく作り上げた細胞や組織をなぜ一生懸命壊して、再び作り上げなければならないのか? そこまで自転車操業方式でなければ、生命は維持できないのだろうか? 博士はここで、“時間”という概念を取り出してみせた。 「エントロピー増大という宇宙の大原則があります。これは形あるものはいずれ必ず形がなくなる方向にしか動かない、秩序あるものは無秩序の方向にしか動かないというもの。 壮麗なピラミッドが長い年月で砂塵に帰してしまうのも整理整頓した部屋が散らかるのも淹れたてのコーヒーがぬるくなるのも、すべてエントロピー増大の法則が情け容赦なく降りかかってくるからです。 カラダでいうと細胞膜は酸化して錆びていき、タンパク質は変性し、細胞の中にゴミが蓄積して機能を失ってしまいます」 情け容赦なく降り注ぐ、エントロピー増大の法則。だからそれが襲ってくる前に先回りして、細胞や組織を壊し、作り替える。 「そうやって常に未来を先取りしているのが生命で、その結果、時間という概念が生まれるのです」 もちろん、最終的にはエントロピー増大の法則に打ち勝つことはできない。壊す元気は徐々に衰え、細胞に少しずつゴミが溜まっていく。これが老化だ。 「歩くという行為も同じです。元気なうちは脚を高く上げて大きな不安定さを作り出せますが、歳を取ると筋力が衰えて、推進力も鈍くなります。 でもそれは歳相応の歩き方を工夫すればいいこと。移動中の駅ではできるだけ階段を使うというように」 世界一座っている時間が長い日本人は、当然歩く時間が短い。老化もしやすくエントロピー増大の法則に呑み込まれやすい、と考えることもできる。 「動物は常に新しい環境を求めて動き回ります。それは食料や住み処や異性を求めて生存範囲を広げるため。 ところが今はインターネットやAIがなんでも教えてくれる。自分自身が移動して新しいものを探索するのではなく、寝転んでネットを見ていても世界に触れられるので動いてるという錯覚に陥ります。 でも、これではエネルギー代謝も滞るので、動的平衡の行為を放棄することになってしまいます」 歩かない日常は認知や思考にとってもマイナスだ。自然の中を歩く機会は脳に必須、と博士は言う。 「脳は五感からさまざまな外部情報を取り込んで、それを交通整理する器官。予測不能な自然の中で感覚器官を全方位的に開いているときこそ、新しい思考が浮かんでくるんだと思います」 歩こう。水辺を、公園を、森の中を――。
福岡伸一
ふくおか・しんいち/生物学者。京都大学卒業後、ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、現在は青山学院大学教授、ロックフェラー大学客員教授を兼任。『動的平衡』(3巻)など生命とは何かを問う多数の書籍あり。
取材・文/石飛カノ(初出『Tarzan』No.866・2023年10月5日発売)