全国初の木造本格復元だった掛川城天守閣、なぜ鉄筋を選択しなかったのか?
今春、4選を果たした名古屋市の河村たかし市長が執念を燃やしている名古屋城天守閣の木造化。「未来の世代まで残せる市民の財産を」との首長そして政治家としての思いがあるようだ。そんな木造天守閣を全国で初めて本格復元したのは静岡県掛川市だった。掛川市はなぜ木造復元したのか? 天守閣木造復元の思いを探った。
掛川城は、室町時代の1505(永正2)年に築城され、安土桃山時代、豊臣秀吉の家臣、山内一豊によって城郭と城下町の整備が行われた。しかし、江戸時代に起きた安政の大地震により天守閣や城門が崩壊、天守閣は再建されることなく明治維新を迎え、廃城令により建物の一部を残して撤去された。復元前は、天守台と堀の一部、安政の大地震後に再建された二の丸御殿など一部の遺構が往時の面影をとどめるにすぎない状態であったという。 掛川城を復元できないだろうかとの思いは、掛川市では昔から街づくりの施策として語られていたようだが、莫大な費用がかかることから現実的な取り組みにまで進展することはなかった。それが現実味を帯び始めたのは、昭和63年(1988年)に東海道新幹線の掛川駅を市民の力で誘致し建設したことだったという。 新幹線の次は掛川城の復元だと気運が自然に高まっていったのだ。掛川市では昭和52年(1977年)から平成17年(2005年)にかけて、現在、日本茶業中央会会長や大日本報徳社社長などを務める榛村純一氏が7期28年間にわたり市長を務めている。 榛村氏は、生涯学習を通じた街づくりを提唱し、生涯学習都市宣言をするなどして市の施策に取り組んだ。榛村氏の考えに共鳴した篤志家より掛川市に5億円もの寄付があり、多額の寄付金により掛川城復元は財政的にも現実的なものになっていったのだ。
しかし、戦後、復元された城は、ほぼすべて鉄筋コンクリート製という時代であった。復元工事を議論する市議会全員協議会で当時市長の榛村氏は「本格的な木造天守閣の建設は全国でも初めてで、それだけに実施設計は難しく、工事費は鉄骨で行えば6億円位だが木造でやればその倍になる」と説明している。 鉄筋の道をとらず、木造復元を選択した理由は何か? それは、最終的には榛村氏の思い、考えによるものであったと考えられる。榛村氏の家業は林業。掛川市森林組合長や県森林組合連合会専務理事を務め木の文化に強い思いがあった。 榛村氏は、「木の文化によるまちづくりの意義と効果」と題した文章の中で、木の文化、木造建築にこだわる理由として、自身が林業や森林組合長をやってきたこと、環境問題、木造建造物の教育的、精神的な側面の3点を上げ、こうした自身の理念を集約したものが掛川城の復元だったと明かしている。 しかし、その建設は、建築基準法にかかる問題への対処や津軽半島から材木を仕入れるなど大きな苦労があったようだ。また、天守閣の設計は、山内一豊が掛川城を模して建てたとされる高知城をもとに行われたという。 掛川城は平成2年(1990年)8月から復元工事が行われ、平成6年(1994年)4月に竣工、一般公開された。木造復元から20年以上を経た現在、掛川城は地域のシンボル、観光資源として定着し年間14万人もの人が訪れている。