「ミッレ・ミリア」で初めて勝利した外国人ドライバー「ルドルフ・カラッチオラ」…ベンツからアルファに移籍して襲った大事故からの彼の運命は…!?
激動の世界情勢にも巻き込まれていく
メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。そこで、両者の関係についてじっくりと解説していきます。今回は、カラッチオラを襲った悲劇について紹介します。 【画像】イタリアを激走する天才ドライバー「カラッチオラ」を見る(14枚)
ミッレ・ミリアの勝利
1931年4月11日にブレッシア全土が熱狂した。当地でヨーロッパの最も過酷なレース「ミッレ・ミレア」がスタート。ルドルフ・カラッチオラのメルセデス・ベンツレーシングチームは初めての大試練が待ち受けていた。カラッチオラと彼の妻シャルリー、コ・ドライバーのヴィルヘルム・セバスチャン、メカニックのツィンマー、そしてレース監督としてのノイバウアーのわずか5人で戦わなければならなかった。 レースは時間との戦いであった。クルマは3分間隔でスタート。重たいクルマは午後遅くに初めてスタートする。偉大な人気者であるヌボラーリ、カンパーリ、そしてバルツィだ。この偉大なドライバーたちに対し、唯一のドイツ人ドライバーであるカラッチオラはドイツ車のメルセデス・ベンツ「SSKL」(ゼッケン87)で戦った。 このSSKL(ドイツ語Super Sport Kurzes Leicht Fahrgestell=スーパー・スポーツ・ショート・ライトシャシー)は、とくに軽量化のためシャシーに軽減孔を設けた。そして軽量のSSKLはチューニングも300psまで発展し、最高速は240km/hを出した。 カラッチオラの妻シャルリーはノイバウアー監督に向かってこう言った。 「私たちはクラブへ行ってグラスを傾けましょう。ルディ(カラッチオラの愛称)の勝利を祝ってね」 クラブには報告が続々と集まってきた。ボローニャから報告が届き、室内はシーンと静まり返った。スピーカーが鳴り響く。 「ドイツ人のルドルフ・カラッチオラがメルセデス・ベンツで5分のリードを築きトップを走っています」 それからシャルリーとノイバウアーは待った。2時間が過ぎた後、シエナから報告が入った。アナウンサーはまさに喜びのあまり歓声をあげていた。 「お知らせします。たった今、ヌボラーリがここに着きました。次いでカンパーリが到着。カラッチオラはまだ見えません」 メルセデス・ベンツチームのスタッフたちは、後でカラッチオラがエキゾーストパイプの破損で10分間止まってしまい、耐え忍んでいたことを聞き知った。 地獄は続いた。気力の無くなったカラッチオラはレース中盤にして、文字どおりヤケッパチになっていた。彼の目はどんよりとして動かなくなり、彼の頭はどんどん垂れ下がっていった。 「気をつけろ、ちょっと脇へ寄れ」 とコ・ドライバーのセバスチャンがわめく。カラッチオラは体を最も外側へとずらし、セバスチャンはその後に続いて体をずらす。今や、彼らはいっしょにステアリングを握っていた。