多くの人の胸を打った作文は松竹映画「どろんこ天国」の原作に…作者の10歳少女が2年後に非業の死を遂げた驚きの理由
映画の原作料として大金が
素直な語りと、貧しいながらも楽しげな一家の暮らしぶりは、読む人々の心をとらえる。すぐに少女のもとに、記者たちが駆け込んできた。新聞、ラジオ、少年誌などで次々紹介された「母」は、共感と同情をもって、大反響を呼んだ。 じきに報道は落ち着いたが、しかし数カ月ほどして、また彼女のもとにスポットライトが戻ってくる。ラジオ放送で「母」を聞いたシナリオライターが、チンドン屋の母と娘たちの明るい生活を脚本に仕立て、映画化が決定したのだ。 翌昭和33年、封切りを前に、完成した松竹映画「どろんこ天国」の試写会が小学校で開かれると、近所の人たちが大勢詰めかけ、感極まって涙を流した。A子ちゃんは、なにがなんだかわからないまま、方々に引っ張り出される。母親役をつとめた清川虹子と、テレビのクイズ番組に出たりもした。 小さな長屋の自宅も、このうねりに飲み込まれた。路地をめぐる噂は早く、原作料として、一家に5万円が支払われたことが瞬く間に話題になった。 当時、日本住宅公団が手がけた団地の2DKの家賃が、4000円~4800円。夢の団地暮らしの、約1年分の家賃が、高橋一家の手に転がり込んできたのだ。チンドン屋の稼ぎがよくて1日300円ということを思えば、一家にとってはかなりの大金であった。 高橋家には全国から賞賛の手紙が舞い込み、長屋には、お祝いの人が頻々とやってきた。そのたび、人のいい夫婦は、酒をふるまって歓待した。
祭りのあとの現実
「むしられる『どろんこ天国』 “五万円”に群がって 心ない近所の人 A子ちゃん重体」 という、大見出しが朝日新聞朝刊に載ったのは、昭和34年の3月8日だ。 なんと、つい1年前まで元気だったA子ちゃんは、栄養失調から肋膜炎を患ったうえ、腎臓炎などを併発し、近所の病院にふせっていた。あろうことか、父母は彼女の入院費にも事欠く始末だった。 なんとか彼女を助けたいという級友4人が、朝日新聞社に連絡をとり、A子ちゃんの現状を伝える、この一報が放たれることになったのだ。 記事にある一家のその後は、痛々しかった。「どろんこ天国」の映画化を機に、高橋家には祝福の声が押し寄せたが、一方で、妬み嫉みの声も、渦巻くようになる。街の愚連隊からは金をせびられるし、「ちょっと金を工面してくれないか」という申し出を断ったら近所づき合いがぎくしゃくした。 一家を見守ってきた棚橋先生はのち、「婦人公論」(昭和34年6月号)に書いた手記のなかで、「盆と正月が一緒に来たよりもあわただしい一瞬が終わると家の中には何一つ残らなかった」と振り返る。お金も、A子ちゃんの進言で病気をした長女のために2万円を使ったのをのぞけば、「後はどっかへ飛んでいってしまった」らしかった。 先生は続ける。 「生活状態が再びもとにかえって、給食の金もまた滞り始めた。新聞やラジオ・テレビでかあちゃんがチンドンの内職をしていることが知られ、生活保護が打ち切られた」