「最後の兵隊」小野田寛郎さんが羽田空港に降り立ってから50年…「ジャングルおじさん」が次世代の子供たちに残していた「贈り物」
---------- いまから50年前。羽田空港に「最後の兵隊」が降り立ちました。大日本帝国陸軍の軍人として戦い抜いた小野田寛郎少尉です。彼の姿は、昭和49年当時の大多数の日本人に大変な衝撃と感動を与え、帰国後、マスコミ各社からの取材が殺到。手記執筆を射止めたのは、提示金額が一番低かった講談社でした。前編記事『「まさかの帰還」から半世紀…「最後の兵隊」小野田寛郎さんが日本国民に与えた「衝撃」と、残していた「一枚の手書きメモ」』で明かされた小野田さんの信念は、後半生の生き様で明らかになります。 ---------- 【写真】全国民が驚愕…!「最後の兵隊」小野田寛郎さんの「変化」
「子供むけの手記」が先だった
「戦った、生きた」と題した小野田さんの手記は、まず「週刊現代」に1974年5月9日号から14回にわたって連載され、爆発的な反響を呼びました。毎号10万部ずつ上乗せした部数を刷っても、完売の連続だったと今に伝わっています。そして、連載は学術局で改稿された後、単行本『わがルバン島の30年戦争』として9月8日に発刊され、60万部近いベストセラーとなり、海外で英訳も出版されました。 しかし一方で、小野田さんは周囲から執拗に「なぜ30年も出てこなかったのか」「本当は敗戦を知っていたのではないか」と聞かれ、直属の上官・谷口義美元少佐の口達による武装解除にこだわったことで、そうした態度を茶番劇だ、タテマエを取り繕っただけだと揶揄されました。 また、入院中に政府が持ってきた百万円の見舞金を靖国神社に寄附したことで、「軍国主義の亡霊だ」と騒がれ叩かれてもいます。つねに好奇の目に取り巻かれ、世間の煩わしさを嫌というほど感じた小野田さんは、帰国後わずか1年でブラジルに移住し、原野を切り開いて牧場主となる決意を固めます。彼の決意を経済面で支えたのは、講談社からの印税収入でした。 じつは小野田さんは、『わがルバン島の30年戦争』発売の2週間前に、最初の本を出しています。それは、『少年少女におくる,わたしの手記 戦った,生きた,ルバン島30年』という講談社児童局による子供むけの本でした。手記と並行して週刊現代の速記録を活用しながら、児童作家の方の協力を得て作り上げられたこの本は、大人のように穿った見方をしない少年少女たちに向けて、小野田さんが率直な本心を明かしているように思えます。 冒頭には、こんなくだりがあります。 わたしの健康を気づかってくれ、わたしのこれからの生活を心配してくれる、やさしい少年少女たち。/また、ルバン島三十年間のわたしの生活のさまざまなことを、正直にきいてくれる少年少女たち。 ・小野田さん、あなたはルバン島で、どのようなくらしをしていたのですか。三十年間、どんなものを着て、どんなものを食べていたのですか。 ・何度もよびかけたのに、どうして出てこなかったのですか。上官の命令は、それほどぜったいに必要なのですか。 ・いちばん悲しかったこと、苦しかったことはどんなときですか。 ・あなたはなぜ、一生をぼうにふるような戦争などしたのですか。 ・日本の敗戦を知らなかったのですか。 ・日本へ帰ってきて、いちばんはじめになにを思いましたか。 ・現在の日本をみて、あなたはどう思いますか。 きみたちの質問は、それぞれ、わたしにとってはだいじなことばかりだ。とうてい一口でいえることではない。/ただ、このことだけはいっておきたい。/東京国際空港での記者会見で、「三十年間のジャングル生活の、あなたのいつわりない感想は?」ときかれたとき、わたしは「人生のもっとも意気さかんな時期に、一つの任務に全身を打ちこみ、いっしょうけんめい生きてこられたことは、幸福であった」とこたえた。 記者会見でこたえた、あのときの気持は、いまでもかわりない。/きみたちには、わたしのこの気持ちが、よくわからないかもしれない。/この気持ちをわかってもらうためには、ルバン島の三十年の生活をありのままに、なんのいつわりなくお話し、きみたちにきいてもらうよりほかない。/それが、きみたちからもらった、たくさんのたよりの返事にもなると思った。 (文中一部略)