「最後の兵隊」小野田寛郎さんが羽田空港に降り立ってから50年…「ジャングルおじさん」が次世代の子供たちに残していた「贈り物」
あだ名は「ジャングルおじさん」
小野田さんは、少年少女たちへのメッセージを、自身の後半生で体現しました。ブラジルで牧場主として成功した彼は、その生活に安住することなく、1984(昭和59)年から日本に一時帰国して、子供たちにさまざまな体験をさせるキャンプ『小野田自然塾』を始めたのです。 1987(昭和62)年には、講談社から『子どもは風の子、自然の子 『ジャングルおじさん』の自然流子育て』を出版、さらには1989(平成元)年、その活動を発展させ福島県東白川郡の山間部に私財をはたいて広大なキャンプ場を完成させました。 自然を味方にして戦った「生きる」ことの知恵を子供たちに伝えたいーー『小野田自然塾』の活動は生涯にわたって続き、2万人以上の子供がキャンプに参加したのです。小野田さんは自著『子どもは風の子、自然の子 『ジャングルおじさん』の自然流子育て』でこんな風に綴っています。
地元民が明かしていた「オノダ」の評判
〈強い雨に打たれてはじめて、家のありがたさを知り、食事をすることによって水のありがたさにも気づくのです。雨が降り、木が生きるから水が絶え間なく流れ、生き物が生きられ、人間も生きていけるのだということを知ってほしいのです。都会の中で育つと、雨は『百害あって一利もないもの』と思いがちです。キャンプ生活で、山の水をくんで食事をすることで、子どもたちは、本来、水は水道のコックをひねりさえすれば出てくるものとは思わなくなったでしょう。水は水道料をはらえば手に入れられるものではなく、雨の不便、不自由を忍ぶことによって得られるものだということがわかったと思います。 ぼくの今までの人生はかなり極端ではありましたが、その人生を振り返って考えてみますと、子どもの希望、夢を実現させてやるために、あるいは、さらに大きな夢や希望を抱くようにさせてやるために、世の親ごさんがたにぜひお願いしたいことがあります。樹木にたとえていえば、芽をつみとられた草や、芯を折られた木ほど哀れなものはありません。芯を打ったり、枝を打つのは成長してからのことで十分なのです。子どもたちはやがて、独立独歩で長い努力の一生を送らなければなりません。できれば、そのながい道のりを好きな道、それに近い道が歩めるよう援助してあげられれば、その子にとっての幸福な第一歩になるのではないか、経済的には多少恵まれなくても不満は出ないと思うのです〉 小野田さんの人となりを現す、あるエピソードがあります。 30年にわたってルバング島で戦いを続けていた小野田さんは、時に討伐隊と銃撃戦を行い、自分たちが縄張りと考えている地に踏み込んできた地元民を威嚇しては姿をくらますため「島の山猫」と呼ばれて恐れられていました。しかし「オノダは決して女性と子供には危害を加えない」ということが地元民にも広まり、島の女性と子供は安心して暮らしていたというのです。