【西岡徳馬インタビュー】能天気だった下積み時代を振り返る「事務所から前借りしたり、いろんな人のヒモをやったり…」
強面のヤクザから刑事、真面目な銀行員、ラーメン屋の店主……と、名バイプレーヤーとして、さまざまな活躍を見せる西岡徳馬(徳は旧字体が正式表記)。そのキャリアは長く、初めて子役として劇団に入ったのは小学校1年生のときだった。その後、演技の道から離れ、やんちゃな思春期を迎えるが、高校を中退になってしまう。そこから再び、演技の道へと戻ってきたのだった。現在、78歳の西岡にこれまでの道のりを聞いた。【全3回の第2回】 【写真】文学座に所属していた頃の西岡徳馬。他、ブルーのジャケットにスカーフを巻くスタイルの西岡徳馬なども
10年間、ヒモのような生活を送って
「結局のところ(高校を)中退となった。喧嘩じゃなく、試験でカンニングを疑われたんです。全成績の点数が没収されて留年が決まった。親が呼ばれて説明を受けてね。途中で父親が苛立って、『こんな学校はやめる。帰るぞ!』と席を立った」(西岡、以下同) 中退した3日後に、父親から「行け」と差し出されたのは“東宝芸能学校”の冊子だった。 「えーっ、芸能学校かと。今考えると、子役をさせたことも含め、実は親父がしたかったことだったかもな、と思えるんですよ。親父は印刷会社を起こして懸命に働いた人だったけど。そんなことで、ともかく通うことにした。そこで帝劇の第1号女優、村田嘉久子さんと出会ったんです。授業中にふっと『あんた、いい役者になるよ』って言われた。いい役者って何だ?と初めて思って、そのとき、芝居で生きていこうと腹を決めたんです」 鎌倉の「男子たちの素行がなかなかに騒々しい(笑)」高校に中途入学した。卒業にあたって、「“芸術学科演劇専攻新設”と書かれた駅の看板を、偶然に目にして、ここだ」と受験。玉川大学に入学した。 「あるとき先生から『きみは、どこで生きたいか』と聞かれてね、『雲』という劇団を答えた。高橋昌也さんとか素敵な俳優がいましてね。そしたら、非常勤で来ていた演出家から、『きみはいちばん文学座的だけどな』と言われたんです。僕には杉村春子さんが座長の、女性の劇団っていうイメージがあったんだけど、調べたらテネシー・ウイリアムズやら、アーサー・ミラー……やらやっていて、すごいと思って。それで受けようとしたら、大学で4年間、学んでいるから、養成所でなく研究所からでいいと。3年目には劇団員になっちゃいまして」 プロの俳優となって舞台に立った。だが、無名の舞台俳優の生活は厳しい。バイトに明け暮れた。 「実家が横浜だったから、アパートを借りなくても通えて、おふくろの飯も食べられたけど、やっぱり親父から金はもらえないからね。バーテンや、陸送の運転手とか、いろいろやったよね。ボウリング場のメンテナンスは、遅番で夜11時から。夜中じゅう床掃除や、灰皿の取り換え、トイレ掃除とかしてました」 苦しい下積み時代と捉えられそうだが、本人はいたって「能天気だからな」と話す。 「人から見たら大変そうに見えたかもしれないけど、鈍感なのかね。きついことや嫌だと思ったことはすぐに忘れちゃうの。ひどいことされて、一生、覚えてるからな!とか思っても、あれ、あいつの名前、何ていったっけ?っていう具合。だけど嫌なことってマイナス要素がいっぱいあるわけだから、根に持たず、忘れた方がいいわけで」 可笑しいのは、いわゆるヒモのような生活をしていた話である。 「3年目のころ、売れてる女優さん(宇津宮雅代)と結婚しちゃったから、バイトはやめて。ヒモみたいなもんでしたね」 しかし結婚生活は2年ほどで終わり、その後も同じような生活が、10年ほど続いた。 「事務所から前借りしたり、まあ、その、いろんな人の……ヒモをやったりですね(苦笑)。もう女性には、足を向けて寝られません」 それでも妙な醜聞に晒されなかったのは、ひとえに、どこか憎めない西岡の人柄だったのだろうか。
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